時代の音

ちょっとした合間に、東北学院大のサイトから、鈴木秀美「時代の音」という論文を。ガッチリ構築された難しい論文ではなく、エッセイに近い書きぶり。
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/gakujutsu/kyoyo_154/index.html

……バッハの楽譜には音の大きさを指示する書き込みがほぼ皆無、fやpの記号はあれど、それは独唱者の登場や全奏といった舞台進行を示すもの。逆に、時代が下って例えばチャイコフスキーは、ピアニシモをさらに突き詰めたppppppの指示さえ楽譜に書き込んでおり、あたかも、クラシックが「クラシック」になるにつれ、演奏家が音符そのものから読み取れる情報が少なくなっていくようだ。クラシックを現代曲として演奏していた当時なら、そのような記号は不要であっただろうが、現代は必要とされる傾向にある。ニコラウス・アルノンクールは『古楽とは何か』において、楽譜とはそもそも、いつ音が始まるかを示しているに過ぎないと言った。だとか。

前述のアルノンクール氏は、「音は〈消えるように〉終わるのであり、正確な終わりを聴き取ることはできない。幻像、つまり聴き手のファンタジーが音を延ばしており、現実の聴体験と分けることができないからである」とも述べている。つまり、一つの音の終わりは多くの場合次の音の始まりによって明らかとなるが、聴くものの想像の中にはまだ鳴り続けているかもしれず、楽譜はそれを記すことができないのである。

楽譜に対するこのような看破を今さらながら面白く読みました。あげられている例などは、鈴木氏の発見というよりクラシック音楽家にとって常識といえることも多いのでしょうが、思考の流れに、なるほどと。
表現の「始まり」と「終わり」をどう示すかというのは、文楽や和歌でも興味のあるテーマです。文楽は、1つの段が終わった時、「完全に終わらせない」ためのとある工夫をしている芝居なのですが、その部分に言及している研究書やエッセイなどをまだ1つも見つけられていなくて。


鈴木さんはチェリストかつ音楽学の研究者で、古楽を当時の楽器で演奏するレクチャーコンサートを定期的に行っており、以前読んだエッセイ『ガット・カフェ』でそのレクチャーの様子がまとめられていました。論文の結びは、現代生活において音楽の楽しみ方は多様化しており、演奏者も聴き手も様々な「選択」をしてそのたった一つの音楽をつくる必要がある、ピリオド楽器をよく研究した上で古楽を演奏するのもそのような「選択」の一つである、といったまとめになっていました。上記のように“楽譜が提示するのは音楽の始まりだけ”と考えることが、演奏者と聴き手がどの部分を具体的に「選択」するのかという後半の思考の基盤になっているわけです。