吾妹子哀し

吾妹子哀し (新潮文庫)

青山光二『吾妹子哀し』(新潮文庫)。おもしろかった。河野多恵子さんの『秘事』と並ぶ夫婦小説として名前をあげている人がいたので興味を持った。90歳の夫婦の話で、認知症の妻を夫が世話するもの。哀しさはあれど、なんともいえない、ほほえましい筆致である。妻は若い頃から美人だし、夫はさぞモテただろうと思う。非モテの文学というのを数年前から耳にするけど、これはモテの文学。
妻は失禁や徘徊をくりかえし、いろんな記憶をなくして脈絡のないことを言う。夫はそれも妻だと自然に思っていて、なんだかんだと会話をし、ゆるゆると夫妻の晩年が続いていく。遠からぬうちに二人とも死んで、日々に終わりがくることがわかっている。夫は、そんなふうにあまりに自然な自分は、ちょっと介護に慣れすぎて疲れているようだという自覚もある。哀しい。死は怖い。ただ、彼の中には、妻がなくしたぶんの記憶も含めて、今につながる長い人生がふっくらと積み上がっている。その記憶のたたずまいがユーモラスで豊かだ。雨上がりの土のように、鮮烈で香ばしい匂いがする。


夫妻が金銭的にとても裕福であるらしいのと、男性が女性を介護しているので、抱き上げるといった際の体力など、逆よりも少しだけ楽なのかもと思う。「介護」というものの物理的困難が、まだ限界には至っていない。何年も介護し、介護されることを日常とする人々の、本当に大変なところは、限界があってそれを乗り越えてさらに介護を続けていかなければならないところだと思うから…。
ただし、この夫婦をよその様々な夫婦と比べることは無意味でもある、どの夫婦も、他の夫婦と比べたって意味がない気がする。私自身が自分の両親を見て、そう思うようになった。無意味というのは、あくまで今の私にとって無意味に感じられる、ということにすぎないけれども。。。この小説は読んでいてなんとなく楽しい気分になるものだったし、考えさせられることもあり、非常に哀しくもあり、深いものだった。


中編「無限回廊」が併録されていて、こちらも同じ夫妻が描かれている。夫妻が墓参りのために東京から神戸へと旅行し、途中で22歳の頃の回想が出てきて、また90歳の現在に戻る。この小説が回想シーンだけ、現在だけだと、こんな感動は受けないと思う、読みものとしてはどちらもおもしろく読ませるのだけど。「吾妹子哀し」が夫妻のおそろしいほどほほえましい一瞬を切り取って、頂点に達しているとすれば、「無限回廊」はもう少し夾雑物の多い、ちょっと素人っぽい文章になっている。ただそれも逆に、とぎすまされた小説ととぎすまされていない小説との連続性に気づかされて、目からウロコ的長所ではある。
妻と出会ったころの、東大の学生だった若い自分や美しい妻、当時の友人たちの姿が回想される。回想されているのが昭和11年頃で、日本がもっとも教養とロマンとデカダンスに満ちて豊かだった時代。美学美術史を専攻していた主人公は、作中で卒論に「生活と芸術」というテーマをすえ、東大近辺の古書店や喫茶店に行き、銀座でデートをし、本を読んでものを考えたりしている。妻と結婚する前、わりこんできた別の女から逃げるためにしばらく京都へ行って、京大を出て大学教授をしている友人たちとの交流や京都の町中なども生き生きと語られている。モテの文学だから主人公は女にモテて困るし、困っても友人たちが献身的に助けてくれる。幸福な時代。自伝の要素がかなり濃いらしい。当時、作者は太宰や織田作之助らの無頼派作家たちとも交流が深かったとか。それから戦争を経て、数十年を経て、現在の主人公の中にちゃんとすべての記憶が残っている。

 いきなり、杏子が口を挟んだ。
「ここ、どこですか」
「ここって……、神戸だよ」
「ああ、あなたの生れた所」
「よくおぼえてるね」
「忘れるわけないでしょ」
「だって、何でも忘れちまうようじゃないか」
「そうかしら」考えこむふうだった。「そういえば、わたしの名前、何ていうんだったかしら」
「困りましたねえ。何ていうお名前でしたかねえ」
「でも、名前なんか要らない」
「何だって」
「わたしという人は、杉圭介という人の中に含まれてるんですから」
「哲学者みたいなこと云うね」
「あなた、たしか哲学者だったのよね」

「あなた」は哲学者ではなく作家。作家として女編集者とやりとりがあったり、最後までずっと対話や交流が続くのだった。



あと、作中でひとつだけ。力いっぱいつっこみたいところがあります、「パンティ」って言わないで(笑)。パンツとか下着でいいやん。ここはつっこみたい。

…あっ、もうひとつつっこみたい。夜中にうなされた主人公の叫びが「GIYAH」と表現されていて、ちょっとここは、どうしようもない時代の限界を感じました(笑)。