昼休みに図書館で小島信夫の「馬」という短編を読んでいた。

小心なサラリーマンの「僕」は、妻のトキ子に頭があがらない。昔トキ子に「愛している」と言ったのがなんだか言質をとられたような格好になって、トキ子が「僕」に相談なく家を新築しても、その家を増築する工事を発注しても、「僕」はうちのめされつつ働くしかないのである。こんなことではいかん、と工事現場を見に行った「僕」。人夫を監督してやるつもりだったのに、人夫は「僕」が主人であると気づかず、じゃまだじゃまだと押しのけてさも楽しそうに仕事をしている。と、トキ子が、
「あら、この部屋はなんだか変な形ねえ」
「これは馬小屋ですよ。そうおっしゃったでしょう」
「あらそうだったかしら、じゃあ馬小屋にしましょうねえ」
えええええ!と大ショックの「僕」。なぜ馬。
……ここで時間がなくなったので、仕事に戻った。続きがとても気になったので、後でまた図書館に行った。衝撃の「僕」は人夫に殴りかかろうとして(トキ子には怒れない)、電気線に触ってしまい昏倒、脳病院に入院。その間に家の増築が完成した。「僕」はトキ子に問いただしたが、馬小屋というのは本当で、馬主が死んだ競走馬を、未亡人から預かるというのである。つまり、馬の下宿屋である。増築した家の1階がその馬、次郎さんとかなんとか名前がついている馬の部屋で、2階がいちおう「僕」の部屋らしいのだが、入居(?)した次郎さんはたくましい美馬で、乗馬の心得があるトキ子は馬といちゃいちゃする毎日。「僕」はだんだんおかしくなりそうになる。でもトキ子なしでは人生が成り立たない。ほとぼりがさめるまでもう1度脳病院に入ろうと思い、トキ子にそう告げると、「あら、わたしあなたのことを愛してるのよ、大丈夫なのよ」…それはトキ子から私への初めての愛情の告白であった。完。


それから続けて小島信夫の「郷里の言葉」というエッセイのような小説のようなものを読み、なんとなく、小島信夫が「そういう」人であることに納得がいった。小島信夫岐阜県の人なんですね。2編とも非常におもしろかったので大満足であった。


真面目に考えてみると、家と妻と馬。現在の自分がかろうじて保っている自分の家というものへの怖さと、妻が不貞をはたらく(っていう言い方もナンですが)かもしれないという不安と、この怖さと不安が結びついて、妻の不貞が家を変化させるのではないか、そもそも結婚によってなぜか自動的に生まれてしまったこの「家」というものが不可解なのに、妻がそれをますますわけのわからない場所にしてしまうのではないかという恐怖。自分が、家という単位で生かされていることへの違和感が根底にあるようだ。
この小説に限らず、妻の不貞と、夫の倫理観の脆弱さに、折り合いがつかないというか、落としどころがないというのは、日本人特有の「家」の問題と、ひいては「家」を単位とする日本社会の構造的問題に帰着するので、大問題になってしまうのだろう。逆に、それが問題になっていないような不倫小説は、登場人物の社会に対する開き直りの強さと、それを支える彼らの経済的なゆとりの度合いが問われる。ま、私がそんなことを考えても、あまり建設的な考えも浮かばないけど。


この「僕」のへたれ加減は、京極堂シリーズの関口君とも少し似ている。おのれの実存をどんどん揺らがせるところなど。


「郷里の言葉」に出てくる「どたわけめ」その他が、小島信夫の筆で書かれると、とても素敵である。


また仕事に戻ったら、同僚が馬の写真が山のように載った本を2冊も読んでいた。POGというゲームの本だそうである。ペーパー・オーナー・ゲーム。すなわち、これからデビューする馬のデータブックを読んで、数頭を選び、馬主になったつもりになるゲームである。ゲーム仲間との間で持ち点を決め、実際のレースでそれぞれの馬が勝つと、点数が入る。
「ほら、この馬とこの馬は胴の長さが違うでしょう」
「そ、そうなのかな…? ここまで馬の写真をじっと見てると、馬が馬でないもののように見えますね」
「馬がゲシュタルト崩壊を起こすでしょう」
「ほんとうに」

また別の同僚に、先ほどの小島信夫の「馬」のあらすじを説明しようと試みたが、今まで人にあらすじを話した本の中で、これはもっとも説明しづらい小説だということがわかった。上のように文で書くとそうでもないように見えるけれど。同じ作者の「抱擁家族」ほど鈍器でなぐられたような読後感ではないが、「馬」はつまり、日本のカフカであり、ぬるりひやりふわりぞくりとするお笑いであり、読んでいる最中だけが異様に楽しい小説なのだった。


この日、私はいったい、何をやっていたのか…。