記憶と揺らし

先日、心理学を研究する同僚から実験の被験者になってくれませんかと言われ、20分ほどのテストを受けた。テストは人間の記憶についての実験で、PC画面に次々出てくる言葉を大量に暗記しなさいというもの。「初恋」「物置」「ずうずうしい」「血まみれ」とかランダムに50語くらい×2セット。途中で「今のは忘れてもいいですよ」とか、「その言葉は自分に当てはまると思いますか」と聞かれるだとか、揺らしが入る。すぐにくたびれて、ぜんぜん暗記せずあきらめている私(…)。


このような「揺らし」は、よく考えると日常会話のあちこちにある。話し手が、よかれと思って話の途中に直に相手に話しかけてくるもの。これは良くも悪くも、聞き手の頭に大きな負担がかかるとわかった。物語や小説でもこういう手法がある。わざと語りを「揺らす」のだ。


本を読んでいるとき、音楽を聴いているとき、時間性にのっとったあらゆる芸術を楽しんでいるとき、たいていの人は、冒頭からの流れを無意識に暗記しながら楽しんでいるだろう。時間というのは1本の線のようなもので、線条性があるなどと言われるけれど、この線条性に私(たち)はけっこう支配されている。


しかし、本来、人が何かを思ったり考えたり感じたりするのは、1本の線のようなベルトコンベアー式のやり方ではない。
と、同時に、複雑にゴチャゴチャしているものを見るたび、私たちは、それを1本の線の上にきっちり並べたいという欲望を持つことが多い。
そして並べたら、並べたその瞬間から、すべての感覚がまたそれらをグチャグチャに混ぜてしまう。


文芸において、「揺らし」の手法は様々なものがある。文字の利用もその一つで、例えば平安時代、活字ではなく筆で文字を書いていた時代には、連綿と続く文字の、その切れ続きの具合によって、書かれた内容に複数の意味を込めようとする。
紀貫之の『土佐日記』の冒頭は「をとこもすなる日記といふものををんなもしてみむとてするなり」と始まるけれど、読者は、「“男もする”という日記というものを、女も…」という意味を読みつつ、平安時代のひらかなで書かれた文字を追う目は、同時に「をとこもす(男文字=漢字)」「をんなもす(女文字=仮名)」という対比を一瞬で冒頭から拾い出す。拾い出させられる。むろん、それは様々な読み方のうちの1つにはすぎないのだが。
土佐日記』は、土佐から京への旅日記としての内容もなかなか面白いのだけど、まず男性である紀貫之が女性の一人称で書いた日記であり、男性が漢文で書くのが当たり前だった日記を、女性が平仮名文で書いたという設定がウリである。
この世は男女の2種類の性別でくっきりと分けることができ、両者は対等になり得るという、明快なジェンダー論の存在を見てとれる。ちなみに当時、紀貫之は6〜70歳と思われる。


ま、そんなことはそのうちにゆっくり考える。ほんとこの日は疲れたのよ!