水上庭園

子どもを生むという小説と生まないという小説を続けて読んだ。木地雅映子『氷の海のガレオン/オルタ』と富岡多恵子『水上庭園』。
どちらもするするとページの中へひきこまれていく文章でとても面白かった。
ともにタイトルに水が入ってる。過激でほのぼのしているのは前者。後者はこれという衝撃はなくすぐ忘れられそうだけども(実際すでに忘れられつつあるのかもしれない、私は先日10秒古書店でてきとうに買った)このような時間を描いた小説が読めることをありがたく思う。
20年前の1970年、34歳の日本人女性が夫とともにシベリア鉄道に乗ったとき、乗り合わせた21歳のドイツ人男性がいる。彼と18年後に東京で、さらにその2年後にベルリンで再会するという話である。
2人はひとときの間恋人のように姉弟のように友人のように手紙をやりとりし、また疎遠になり、現実的にはほとんど何も互いのことを理解できてはおらず、イメージだけで相手を形づくっているところもあるのだけど、心の中に居場所をずっと保ち続ける。
書簡小説をいろいろ読みたくなったし、日本語の小説の伝統、想起される文体や小説が古いものも新しいものも次々に頭に浮かんで楽しかった。何より、私がこの物語を好きだと思うのは、このような関係に憧れるからではなく、読むうちに誰もがこのような個人と個人の関係を持っていることに気づかせてくれるからだ。美化ではないということ。うすい曇りの空に時おり光が射し、東京・ベルリンのコンクリートバンコクの熱帯の川とロシアの真冬の鉄道とメキシコのずぶ濡れの雨と……そのような世界中の景色の中で、記号的なキャラクターではなく個人として登場人物が存在することが心地よかったのだ。
女であり日本人であり詩人・シナリオライターである主人公A子。名は「A子」としか書かれない。男でありドイツ人であり非常勤講師であるE。彼も「E」としか書かれない。A子とEのもどかしい交流。会いたくて会わない。思考と感覚と行動が渾然一体となる。なぜ現在が存在しているのかわからないまま、広い空の下でそれぞれにひょいと立っている。それもまた私の脳内につくられた観念的な図像なのに、立っている生身の感じが行の間から伝わってきて、じんわりと満ち足りる。1人じゃなくて2人いるから個人でいられるのだと思う。

…わたしには、わからない「硬い闇」だからこそ好奇心があります。Eの、「硬い闇」の表皮の柔かいやさしさ、わたしにはそこと交流している実感があります。「夫がいるのに、ドイツにきた」とEがくり返すのは、わたしがそのようにしたことへの「よろこび」の表現と受けとるべきなのでしょう。それは彼の理詰めのロマンティシズムです。ところが、わたしには、理詰めもないかわりにロマンティシズムもありません。ドイツで幾日かEと過しているのは、現世での偶然の出来事にすぎないと思っており、この偶然に、わたしは深く感動しているのです。そういう偶然をのがさず味わいたいとドイツにやってきたのです。夫と暮しているのも偶然です。夫といる日々には、たまたまEが不在なだけです。わたしは、イキモノのなかでことに人間は生れないのがもっともいいと思っていますので、生れてしまった人間はカワイソーな存在だと思っています。こういうことを、Eにどのように説明したらいいのかわかりません。そしてまた、説明しにくいからではなく、説明などしなくていいと思ってもいるのです。
 つめたい小雨のなかを、身をちぢこめた二ツのイキモノがくっついてなにやら喋りながら歩いています。