ニャッハー!

何を書こうかな。
さほど期待なく読んでいた化野燐『蠱猫』(講談社文庫)に、江戸時代の鬼神論:有鬼論と無鬼論の対立が出てきて、ちょっと楽しくなってきました。

蠱猫 人工憑霊蠱猫 (講談社文庫) オーケンののほほん日記 (新潮文庫)

前に読んだ大槻ケンヂオーケンののほほん日記』では、日記のなかでUFO本がガツガツ読まれていましたが、『蠱猫』は話の途中で江戸期の有鬼論者と無鬼論者の書名がたくさんあがっていました。『蠱猫』が済んだら、地味にガツガツ読みたいです。


詳しく書いてみると、『オーケンののほほん日記』、オーケンがふとしたきっかけでUFOに大いに興味を持ち、UFO本を片っぱしから読み興じていました。後に神経衰弱をわずらい(UFOそのものが原因ではないけど)、医者から「もうUFOはやめなさい」とストップをかけられるほど。その読書日記がとても面白かったのですが、オーケンが語るUFOそのものの面白さについては、残念ながら少し飽き足りないものを覚えていました。「実在するかどうかは問題ではなく、集団ヒステリーや妄想かもしれないものに熱中してしまう人間の面白さ」というのは理解できるつもりだけど、「実在するかどうかはたいした問題ではない」という楽しみ方が引っかかったのね。そもそも実在するかしないかの二択にも引っかかったのね。実在してもしなくても、そこから広がるものがちょっと貧しい感じがしたのね。。うわあ、なんか自分が情けない。。。
あくまで当時の私の印象にすぎませんが、UFO、あんまり好みじゃありません。西洋由来の心理学があまり好きではないのかも…というのと、実在云々の議論の中に出てくるアメリカの陰謀論や、妄想を見るに至ったとされる人々の、躁状態の激しい言葉にさほど魅力を感じていないせいか、などと思います。
ところが、『オーケンののほほん日記』と同じころに、新井白石のおもしろい随筆を読むことがありました。これは「先生」と「客」の会話が中心になっていて、客が近ごろ江戸で噂になっている怪異を紹介し、先生がそれをすぱっと合理的に解釈してみせるという形式になっています。たとえば、「死刑になった罪人の遺体をほうむった墓地で鬼火がすごい」という話には、「江戸の死刑は斬首のため大量の血が流れ、罪人であるからほうむられる前に数日間放置される。その血液の燐が燃えて鬼火になるのだ」といった調子。それこそ「世の中には不思議なものなど何もないのだよ」という感じのコミカルな決め台詞すら出てくるもの。一方で、「人柱」について、骨のカルシウムが建築物の強度をあげるといった俗説を一蹴し、建築に異物混入は害こそあれ益にはならず、それを敢えておこなう人の心が工事の精緻さやその後のたゆまぬ手入れを行わせ、建築物の強度を増すのだといったことも語られていました。
明治時代の『真景累ヶ淵』(幽霊は人間の神経作用によるもの)より前に、江戸時代に「鬼神は存在するのか否か」という議論が盛んに行われていたことをうかがわせる本です。
もともと奈良時代平安時代の「おに」「もの(モノノケのモノ)」に関する文献を読むのが好きだったこともあり、以来、江戸期のそれにちょっと興味が湧いていたところ、今のんびり読んでいる化野燐『蠱猫』(講談社文庫)に、まさしく新井白石を含む江戸時代の鬼神論:有鬼論と無鬼論の対立が出てきたというわけです。
ちなみに、新井白石ら江戸期の学者といえば、儒教に由来する朱子学をおさめてきた人たちで、孔子から始まる儒教の経典には、「鬼神」に関するあいまいな文言が膨大に含まれています。それゆえに鬼神論は一種の文献解釈学でもあるし、日本人の考えるオニと儒教の鬼は風土の違いから完全には重なっていないというのも問題です。『蠱猫』は現代の日本人である主人公が鬼神をあやつり、鬼神に憑依されて敵と戦うというお話で、アクションはCG映像みたいなのしか浮かばない(すいません…)けど、そこでの「鬼神」とは何ぞや、というのが楽しいです。
また、大雑把にいえば、中世西洋で哲学者たちが神の存在を議論したことと異なるのは、キリスト教の神についての議論は「人間を規定する」ために必須だったと思われますが、東洋の鬼神は「自然・世界を規定する」ための議論だったという点でしょう。この点が私にとってなじみやすいものとなっています。