構図と画素

浅田さんのSP、ポージングがどれも素敵だったねー。子どもの頃によく見ていた人形を思い出しました。装飾過剰の宝石箱みたいなオルゴールのふたを開けると、真紅のビロードの台の上でくるくる踊り出す人形。すらりと伸びた長い手足、レースと花の衣装、重苦しくでも踊り出さずにはいられないような舞踏会の音楽、そして背中がなんとなく(半透明の布で隠されてるけど)舞おねえさんの芸術的になめらかな背中に似てた。


デジカメでうまい写真を撮るのに、構図と画素という話があります。これは表現ということ全般に応用できる話で、構図は「どんな視点から表現したか」、画素は「どれだけはっきりと表現できているか」。フィギュアスケートでいえば「どう滑りたいかというイメージ」が構図で、「実際にどう身体を動かせたか」が画素と呼べると思います。そしてまた、構図と画素は対立する概念ではありません。いいな、面白いなと思うスケーターは皆その両方を兼ね備えていて、個性的なイメージを持ち、個性的に身体を動かしてみせる。あるいは個性的に身体を動かし、個性的なイメージがそこにあることを観客に感じさせる。それが魅力的な演技ということなのでしょう。
プルシェンコさんはたぶん構図/イメージが余人に理解しがたいタイプのスケーターで、それがトリノオリンピックの時には「宇宙人」と言われたりして大受けしたのだと思うのですが、そもそも構図/イメージとは、他人に向かって言葉で説明する必要がないものです。本人が分かっていればそれでよく、あとは観客の方で自由に受け取っていきます。構図を明確にするために、たとえばクレオパトラのようなヒロイン像を借りて使うこともありますが、クレオパトラはあくまでイメージの手がかりにすぎず、最後はスケーター自身の身体の個性である「画素」と連動させた、スケーター自身の「構図」が重要なのでは、と思います。
これはスケーターに対してどうこうと論評したいのではなく、見る側が自由でいていいのだということの根拠として、構図と画素について考えてみたのです。