書き始めるとどんどん長くなることばかり

あれやこれや書こうと思うのに、書き出すと1つの話題がやたら長くなって、こんなにいらないよーと削ってみたら今度は意味がわからなくなって。笑。

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そういえば、まったくの妄想ですけど、読書メーターのあのたくさんの感想群を、「テクスト論」と「作品論(作者論)」の2つを両極とする平面分布図に散らしてみたら、きっと面白い図ができるだろうなーとよく思います。

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先日は谷崎由衣『舞い落ちる村』を読みました。「舞い落ちる村」と「冬待ち」の2編が入っていて、どちらも大学生の女の子の話。「冬待ち」の冒頭、

 頭上では空が旋回しながら無数の雨滴を散らしている。車輪が軋り、飛沫を上げる遠い音。すると耳元でかたかたとやかんが沸騰する。ぼんやりした頭のまま立っていって珈琲を湯で溶く。牛乳を流し込む。何も起こらないであろう今日。……

という魅力的な書き出しから、この語り手は、空間を普通とは違うやり方で分節してのける人なんだなーと興味をそそられて読みました。「舞い落ちる村」も、年齢の数え方が普通ではない、とても魅惑的な村のことから話が始まったのでした。言葉が無いのではなく、言葉に早熟な人ゆえの世界の捉え方だと思います。
ただ、言葉以外の要素は、男女関係も女女関係もそれなりに既視感があり、わりと単純に未熟な女の子が不安定になっているだけだなぁというところで感想が止まってしまって、代わりに品のない想像がむくむくと。
たとえば「冬待ち」で主人公は修論の中間発表をするのだけど、主観的すぎる発表内容のせいで周囲の院生との間に気まずい空気が漂うというくだり、ああいう妙にリアルな箇所を、作者の大学院時代の知人なんかはどう読むのだろう。
あるいは、何でもない部分だけれども、ローズマリーのバス・ソルトが夕焼けの色のように赤いというのは、実は奇妙ではないか。。。

家の中で赤子が知らぬ間にぽこぽこ生まれている描写などは、なまなましさと絵空事のような感じとのバランスが絶妙ゆえに、思いきってページに身を沈められます。


舞い落ちる村