柳田邦男「禅僧が女を抱いて川を渡る時」というエッセイに、筆者が河合隼雄から教わったというこんな仏教説話が紹介されていました。


――2人の禅僧が歩いて川を渡ろうとした。その時、川のほとりで1人の美しい女が渡りかねているのに気づいた。そこで禅僧の1人が女を抱いて川を渡してやった。渡り終え、禅僧たちは歩き続けた。
しばらくしてから1人が言った、「おまえは禅僧なのに女を抱いて川を渡したな?」と。女を渡したほうの禅僧は言った、「私は川を渡って女を降ろした瞬間、もうそのことを忘れた。おまえはまだ女を抱いているのか?」。――


執着をいましめる話。最後の「おまえはまだ女を抱いているのか」に思わずゾクッとしてしまいました。おぞましさもあったのですが、僧が妄想で女を抱き続けているという、その不毛な映像にどろりとしたエロチックさを感じ、背筋を何かがゾッと駆け上がったのでした。
と同時に、この話から私自身を振り返ろうとする私もいて、よく1つの記憶にしがみつきがちな己の様子、先へ進めない自分に気づかない・気づきかけても目をそむけて見まいとする、不気味な私の姿をありありと見た気がして、戦慄したのでした。
つねにエロと自己反省のはざまで揺れている。
記憶が執着の種になる。自分の記憶にむらがあることは自覚していたものの、何につけてももっと冷徹に検証せねば。記憶にこだわりすぎてはよくないね。


エッセイが掲載されていたのは、『ベストエッセイ 2008 不機嫌の椅子』という本です。仕事で偶然手に取ったもので、他のエッセイを読む時間がなかったのだけど、読めばたくさん発見がありそうな気がします。
http://www.mitsumura-tosho.co.jp/shohin/essay/book81.html