[演奏会]フレンチ・バロックと寺

法然院にて、ソレイユ・ルヴァンの皆さんによるバロック音楽

休憩

ソレイユ・ルヴァンはバロックオーボエの植野真知子さんを中心に、古楽を当時の楽器で演奏する合奏集団。「コンサートごとに編成も曲も替えます、同じのはやりません」と仰っていて、様々な仲間の皆さんがその都度それぞれの楽器を手にして加わってくる形のようです。お得意はフレンチバロック。前半は短かめの曲と楽器の紹介、作曲家についてもバッハ父とアーベル父はケーテン時代の同僚かつ友人で、バッハ息子とアーベル息子も友人、今日演奏するのはバッハ父とアーベル息子の曲です、といったつながり等。ヘンデルは今年が没後250周年だそうで、祝うというのじゃないけど敬意を表して取り上げていきたい作曲家だとか。ヘンデルいいよね。後半は本領発揮のフレンチバロック、アンコールにも同じくフレンチバロックの作曲家で、ブラヴェの曲を。


ポッドキャストバロックを流しているとフランスの曲も入っていて、ああそういうのもあるんだねーというくらいの認識だったのですが、生演奏で聞くとすごーく楽しかったです。軽妙洒脱で、突き抜けた華やかさや明晰さが際立っています。そもそも、今までずっと怖いとかきもちわるいとか思っていたチェンバロの音が(チェンバロをいったい何だと…)全然怖くないのが初めて。初めてチェンバロ弾いてみたいと思いました。「打鍵」ていう動作じゃなくて、指先でひっかくみたいにして弾くんだよねー。小川洋子さんの『やさしい訴え』に出てくるチェンバロの描写、あれもドイツモデルではなくフランスモデルだったんですね。また独奏ではガンバの音色が新鮮で、バロックチェロに似ているのだけど、もっとずっと軽いのです。音が小さいという難点もあり。ただただ、草が風にさわさわと揺れなびいているかのよう。よくこういう音を音楽にすくいあげたものだねえ、と感動がこみあげてきます。アーベルの曲もメロディアスでありながらふわっふわっとしたリズム感がすごく面白くて、ユニークでした。フラウト・トラヴェルソは紹介時は大人しかったのに、合奏になると一座をぐんぐん引っ張って盛り上げる、質の高い演奏。影のリーダーはこの方。合奏って素敵というのも初めて実感できた気がします。そして通奏低音という概念を学んだ、一つ賢くなった。


また、少し思ったのは、古楽と近現代のクラシック音楽との間の溝があるとすれば、それはまず楽器の奏法の違いであって、自分の手の温度や外気の雨風によってあまりに簡単に音色が狂うものを如何に御していくか、ということなのでしょう。けれどそれに加えて、羊の腸や葦の茎、鳥の羽根を使い続けて楽器を製作する市場のあり方が、現代ではメジャーになりづらい理由かも。大量生産できず、材料の入手にも作り手の育成にも手間がかかるもの。音楽というはかなくも美しい実体のかげで、それが可能になる(演奏の形で実現される)ためのあらゆる「媒介」行為に意識を向けざるをえません。


なお会場の法然院は、紅葉が有名で、秋は観光客でいっぱいになるところです。このような催しを既に何度もおこなっている大きな美しいお寺(浄土宗)。今は藤の大木が花ざかり、哲学の道も久しぶり。帰りは山の暗闇が怖かったので、白川通のバス停まで他の人達にくっついて下りる。
コンサートは庫裏で行われました。広い三和土に楽器をしつらえ、聴衆は上がりかまち(やっぱり広い)のところに座布団や椅子を並べてあり、そこで聞くのでした。5〜60人といったところ。足元にはヒーター、休憩時間には30畳ほどの仏間で熱いほうじ茶の用意が。演奏中とはうってかわってみな小声で雑談など始めつつ、三々五々仏前にお参りしてお茶をもらっているのが、ちょっと法事のような雑多なざわめき。
庫裏すなわち寺の台所だからきちんとしていても生活感のある建物で、大きな黒板に今月の法事の予定などが書き込まれていたり、昭和初期のような電話機が現役らしかったり、長い廊下の両側には大きな本棚がえんえんと並んで、大蔵経の全集から生命科学のエッセイ、小説はなぜか高村薫のみ詰められています。お手洗いは演奏者とも共通なので、さっきガンバを弾いていたイケメンがこんなところに…という気持ちで(すいません)、お互いに日本人らしく慎ましやかにお辞儀を交わすのでした。


ほうじ茶にマカロンを組み合わせたようなお茶目さがとても楽しい、フレンチ・バロックの夕べ。