それはそうと、

それはそうと先日、アンソロジー『ごちそう帳』から国分一太郎「食うえ物」という随筆を読んだ。「わたくしたちは、川へ行けばエビを食った。水でザワザワッとすすいで、生きているやつをなまで食った。」という始まりから素朴で心をつかむ文、山形の筆者の村で食べていた動植物を、次から次にどんどん教えてくれるのが好もしい。読んでいると「野生のえ物」と「正式なえ物」というのがあり、野生のは調理せずにそのまま食うもの。ものすごくたくさんあって、極寒の雪の中にもある。栗の実なども生で食う。お腹にはよくないがうまいので食ってしまうそう。「正式なえ物」はイナゴの佃煮みたいにきちんとした調理法があるもの、しかもイナゴは聖書でヨハネも食べているというので、とてもとても正式なえ物扱いなのである。東北のキリスト教、寒波、想起されることもあるけど、まず読んで非常にたのしい随筆だった。

そして、このわずか数ページの随筆の最後で、

 このような「食うえ物」を、だれが一番先に食って、「これは食うえ物だ」ときめたんだろうか? 小さいわたくしは考えてみたが、それはむろんわからなかった。でも「ヒトコロバシ」などという名をふりかえり、
〈これを食ってみた人が死んだので、こんな名がついたんだべな〉
 と思うと、それを一番先に食ってみてくれた人がかわいそうになった。気の毒でもあった。

とある「ヒトコロバシ」は毒草というわけだけども、今の季節、そこら中に咲いているツツジも毒草で、中国名を躑躅という。躑も躅もあしへんが付いていて、ころぶという意味の字である。羊がツツジの葉を食うと足がもつれて倒れてしまうことから、この名がついたという。私は子どもの頃、ツツジの花の蜜が大好きで、花をぷちっと採って根元の蜜をちゅーと吸っていた。とくに花の大きい種類が甘い。ねこがツツジの葉を食って足をガクガクさせていたら哀しくてたまらないと思うけど、そこはねこにもねこの好みがあるから、食わないのでしょう。

大昔から今にいたるまで、ずっとつながっている一つの生命体、というわけで。


ごちそう帳 (新・ちくま文学の森)