秋のホテル

秋のホテル (ブルックナー・コレクション)
アニータ・ブルックナー『秋のホテル』。面白かったねー。
旅館とホテルはどこが違うのだろう。単なる旅行ではなく何らかの事情があって、旅館やホテルに長期滞在する人々。ホテルは密室性が高い。『一九三四年冬──乱歩』で乱歩はホテルに閉じこもって外界を遮断する。『ねじまき鳥クロニクル』でホテルは井戸の底と同じ役割を果たす。ホテルは個人が集合した場所。それぞれが蜂の素穴みたいな個室を与えられて、思いのままに鍵をかけたり鍵を開けたり。鍵の開いているもの同士がひそやかに通じ合い、共犯者のくすくす笑いをもらす。ホテルに滞在している間だけの運命共同体である。
随筆家の森田たまは、「山の温泉場のホテルなどというものは、ちょうど航海する船のようなものであった。船に閉じ込められた船客と同じように、ある期間ホテルに滞在している人々は、内心いつも何か新しい事件の発生を待ち構えているのである」と言った。

『秋のホテル』の主人公イーディスは39才の作家。ロンドンで「ロマンチックな」小説をいくつも発表して収入には困らないが、「小説の人物は創造できるくせに、現実の人生の中の人物たちは理解できないのだ」。生活ができ、誠実できちんとした女性なのに、愛する人と結婚したいというシンプルな望みがかなわない。結婚をめぐってある事件を起こしてしまい、怒った友人からスイスの湖畔のホテルへ追いやられてしまう。シーズンオフの高級で地味なホテルには、年齢不詳の美しい母娘、無口な伯爵夫人、出された料理を犬に与える女、そして、裕福そうな実業家らが滞在していた。

秋を迎えた湖畔の風景はそのまま映画の1シーンのようで、ありありと感じられる寂しくも透明な風に、いつまでも読んでいたくなる。さらに映画を連想させるのは、登場人物たちがうまくて、あたかも出演俳優が先に決まっていて、それに合わせて脚本が書かれた映画のような印象を受けるから。主人公の容姿はヴァージニア・ウルフに似ているとある。知的でちょっと頬のこけた鳥のような女性だろうか。ブルーの長いドレスを着た姿には、やはり映画の一場面のような美しさが、さまざま思い浮かぶ。

ブルックナーの小説を読むのは『ある人生の門出』『異国の秋』からまだ3冊目だけれど、硬質な文章による人間観察と情景描写のすばらしさが大きな特徴であり、またキャラクター小説としても楽しめるということも一貫している。作者が、人間を(自分を)理解したいという切実な気持ちで小説を書いているからかもしれない。日本の私小説と動機では通じるものがありながら、身をけずって書かれた孤独なキャラクター小説。小説は一つの鉱物のように生まれ出る。小説そのもののストーリーを読むのと同時に、作者が小説を生み出す時の、最初は点や線や面であったものたちが、やがて交錯し、そして屹立する、という物語を感じながら読んでいる。これほどに才能がありながら自身を「不幸だ」と言い切る作者の内面にある理想の世界と、その内面が小説になる時の現実的なコンディション、あるいは物理的な制約。両者の闘争の痕跡として鉱物=小説は実体化し、形作られるんだろうなあと考える。

終わりのない人間観察の文章は、視点となっている主人公自身をも冷静に描き出す。キャラクターの重視は男女という性別の重視ともつながっている。
小説でとくに面白かったのは、たとえば次のようなくだり。あるあるーとちょっと可笑しくなったりしつつ。

「…わたし、ときどき、わたしは娘としておかしいんじゃないかと思うことがあるの。母はもう死んだんだけど、いまだに母のことを考えることなんか、めったにないのよ。考えるときにはきっと、生きていたときほんとうに母を愛したことはなかったという、やるせない気持ちになるの。辛いわ。そして、おそらく、母のわたしにたいする気持ちも同じだったんだと思うの。ただ、母がいてくれたらと思うのは、長生きしていれば、わたしも母がただひとつ好きだったのと同じものが好きだということが、わかってもらえたと思うからなのよ。わたしたちは、どっちも女より男が好きだったの」
「あら、そうじゃない人なんかいる?」モニカは思いきり目を見張った。
「どうかしら――もしかすると今朝のバカバカしい事件で、はじめてわかったのかも知れないんだけど――世の中には男が嫌いで怖いものだから、女同士で結束する人もいるんじゃないかしら。いえ、ぜったいに間違いないわ。わたし、ほんとうは、そういう女たちに引きずりこまれたくない。共犯にされたくないのよ。フェミニストのことを言ってるんじゃないわ。フェミニストの立場はわかるの、それほど好きなわけじゃないけど。女一辺倒の人のことを言ってるのよ。男には貸しがあるというややこしい暗黙の掟を守って男を食い物にしてる、いい気な女のことを言ってるの……」