夕暮れの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時。

小学校から高校までの国語の授業を、ほとんど覚えていない。

『ある家族の会話』にちらりと詩が出てきたので詩の本が読みたくなって、岩波文庫2冊。三好達治の『詩を読む人のために』とアリストテレスの『詩学』を。『詩を読む人のために』は、ノるまでに3日くらいかかった、最初は当たり前のことばかり言っていて、いま自分が「千曲川旅情の歌」を解説しろと言われたら、やっぱりここに注目するだろうというそのままで、国語の授業ふうみで、どうして三好達治がそれを解説しないといけないのかがわからなかった。それに、説明するのに「〜的」を多用する。荒川洋司さん長田弘さん小池昌代さんら、私がふわんと無責任に思い起こす現代詩人のエッセイで「〜的」はむしろ御法度で、いかにそういう言葉を使わずにすんなり表現するかが詩人だと思っていたのです。ややあって、「〜的」の正確無比秩序ある乱舞こそが三好達治だとわかってから、どんどん面白くなりました。

詩学』は、自分にとって古典的な「教科書」の一つなのだけど、教科書のくせに通読したことがなかったという…。で、やっぱり濡れ甘納豆のようにぼちぼちとつまみ読みばっかりしてしまう。ヤコブソンの『一般言語学』も同じパターン。長くもないし、すごくわかりやすい文章で書かれているのに、つまみ読みで満足して、通読できない。
詩学』は前半が比喩の論、後半はギリシャ演劇の論。ギリシャ演劇って、フェリーニの「サテリコン」で能みたいな超スローな動きの美しい演劇のシーンがあって、そういうのを想像するんだけど、「アガメムノーン」とか、ドロドロした激しいせりふ多いよね…。スローテンポでドロドロするのか。気が狂いそう。気になる。

「同じからざるものの中に同じものを直覚」し、それを言葉で表したものが比喩であるというアリストテレスの簡潔明瞭な定義。
とてもよく似た、でも異なる内面を持つ双子がいて、ある脚本家は彼らを同一人物だと思い、ある美容師は彼らを別人だと見抜いた。私はこの美容師さんのような目線が足りないです。「同じ(よく似た)ものの中に同じからざるものを直覚」することが下手。


なぜこんなに画像の明るさが違うのだ…。

詩を読む人のために (岩波文庫) アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)