朝花夕拾

 わが家の裏庭から塀越しに二本の木が見える。一本は棗、もう一本も棗である。
(「秋夜」冒頭)

魯迅文集2』から『野草』、続いて『朝花夕拾』に。『野草』は掌編集というか、ポエムふう。いつのこととも分からぬ思い出話や、思いついた戯れ歌の詞、見た夢の話など、他愛ないものがたり。『朝花夕拾』は評論に近い随筆。漢文には伝統的に「文章」というジャンルがあり、「史伝」や「詩」と並ぶもので、政治論や文学論、生物学にいたるまで、比喩を駆使しながら述べていく小論文のようなものなのだけど、魯迅もバリバリそういうものを書くんだねー。子どもの頃の思い出話をしていると思って(その思い出話そのものが面白いので)ぼうっと読んでいると、あるところで一気に文壇の風刺にたたみこまれたりする。とにかく読ませる。しかも悪口雑言、毒舌展開、感傷とふてぶてしさ、何度も敗北すれど頑固に甘えず、また書く。こういう人は長生きしそうだなと思うし、でもポキッと急に死にそうでもある。私は普段クリティカルシンキングとかロジカルシンキングとか全く得意でなく、理屈をつくる習慣があまりないにも関わらず、魯迅のごね方はどうも他人とは思えない。で、我にかえるとその共感が不思議だ。人を説得する型の理屈には欠けるけど、私も口が悪いほうだからか。


魯迅の文章は冒頭がいつも楽しみで、更新が楽しみなブログのようである。ブログがあればいいのに、と思う作家のマイセレクト、澁澤龍彦魯迅

 たしか去年から、私が猫を敵視するという噂が耳にはいるようになった。
(「犬・猫・鼠」冒頭)

 ぼろぼろの高い壁に沿って、やわらかい埃を踏みしめながら私は道を行く。
(「乞食」冒頭)

 夢で私はベッドに寝ながら地獄のほとりの荒涼たる場所にいた。かすかな、だが秩序ある亡者どもの叫びは、火焔のうなりや油のたぎる音や鉄矛のふれ合う音に共鳴して、酔いしれるばかりの大交響曲となり、地下の太平を三界に告げていた。
(「失われたよい地獄」冒頭)

 何はともあれ私は八方手をつくして、暗い暗いまっ暗な呪文を手に入れ、口語に反対し口語を妨害する連中すべてを呪いたい。かりに死んでから霊魂が実際にあって、この邪悪な心のために地獄におとされようとも、私は絶対に悔いることなく、何はともあれ口語に反対し口語を妨害する連中すべてを呪いたい。
(「二十四孝図」冒頭)