本の愉しみ、書棚の悩み

アン・ファイドマン『本の愉しみ、書棚の悩み』。
「本が多くて困ったわ〜」って言いながら全然困ってないでしょ!というエッセイ(笑)。アメリカの人気ドラマにこの筆者のような人が出てきそうです。ここには、日本ではなかなかお目にかかれない豊かさが存分にあるのでした。両親が作家で子どもの頃から本で遊んで、いっぱい本を楽しんで、好きになる男の子は必ず知的なハンサムスポーツマン(できすぎ…)。ペーパーバックの書き込みを見れば自分の初体験の年齢も思い出せてしまう。現在は理想通りの男性と結婚、夫も作家で読書が大好きで、ちょっととぼけたところもある超萌えキャラである。この本を映画化するなら俳優さんのセレクトに一番力を入れてほしいところ。人間の結婚から5年後、2人の蔵書もゆっくりと「結婚」する。一緒に本棚を一つにする喜び。この可愛い描写だけで本書はすばらしい。誰にでもある「純粋な趣味の本棚」、妻は探検のノンフィクションをいっぱいおさめていて、その引用もとても面白い。読書仲間との軽妙なやり取り、情報交換、本のプレゼント、ベッドでホメロスを朗読し合いながらうっとりと眠りに落ちる夜。両親同様、やっぱり本が大好きになりそうな2人のキュートな子どもたち。


どーなのよ!もうどーなのよ!!(照れ)


「楽しみのために本を読む」こと、それは人生そのものを楽しむことなのだと実感します。時に大笑いし、時にはくだらない悪徳に逃避し、ぽつねんとたたずみ、鋭い皮肉を飛ばし、いとおしむ。さらにジャーナリストとして本の書き手の権利を考え、活動する。本という存在を仕事にし、生活にする。
反感を抱いたかのような感想になってしまってますが、全然そうじゃないんですよー。
いい本が読まれているのか、この人たちに読まれるから本がいい本になるのか。だって、こんな文章を読んで、ここに書かれている意見に賛同するしないとは別に、しみじみとわき上がる幸福を感じない人はいないでしょう。ああ、本が愛されているんだなあという圧倒的な幸福を。

「もちぬしのいない本など、おもしろくもないと思うようになった」と彼は言った。
「本屋にあるのはそういう本ばかりだよね。1990年に歴史家のジョン・クライヴが亡くなったとき、彼の蔵書をまとめて店へ運ぶために、彼のアパートへ行った。そのとき痛切にそれを感じたよ。その年、大英帝国についてのクライヴの授業を一学期間受けた。でも彼は地味な人で、親しみを感じるところまではいかなかった。ジェイムズ・ボンドのペーパーバックが19世紀の議事に関する本のとなりにならんでいる本棚を見てはじめて、クライヴという人がすこしわかったような気がした。彼がもっていた本のほうが、講義よりも雄弁にその人柄を物語っていた。
 それらの本を店にもち帰って、主題別に分けた。歴史は左の壁、文学は右、哲学は奥の小部屋というぐあいに。するととたんに、本はもはやジョン・クライヴではなくなった。蔵書をばらばらにするのは、遺体を火葬にして遺灰を風でまきちらすようなものだった。とても悲しかったね。それで気づいたんだ。本は、ある人がもっている他の本と共存するところに価値がある。それだけとりだすと、意味を失ってしまう。
 その日仕事が終わって店をでるとき、クライヴの蔵書のうちの一冊が、歩道においてある50セント均一の本のカートにのっているのに気づいた。店主がそこにおいたらしい。エドワード時代の小型のシェイクスピア本で、不細工な書体にけばけばしい色の図版がついている。表紙をめくると、十代か二十代のはじめごろのものとおぼしき丸みをおびた幼稚な字で、クライヴの名前と『あらし』のなかのつぎのようなせりふが記されている。『我らは夢と同じ糸で織られているのだ。ささやかな一生は眠りによってその環を閉じる』」
 その本をどうしたの、とアダムにたずねた。
「買ったよ」と、彼は答えた。「そして家へもって帰った」

感じのいい装丁はクラフトエヴィング商會です。

本の愉しみ、書棚の悩み