消費のお作法

ピアノの音

庄野潤三『ピアノの音』。
うまくひとことで言えないのだけど、↑の「消費のお作法」という言葉が浮かんだのだった。使えばどんどん減っていくものをどうやって使うか。使うことで何を生み出させるか。毎日、妻や孫娘が練習しているバイエルやル・クッペ、ブルグミュラーの練習曲の音がする。日々の暮らし、消費にピアノの音が重ねられて、詩になった。

 居眠り。夜、ピアノのおさらいを終って居間へ来た妻が、
「ピアノ弾きながら、一曲終る度に椅子にもたれて眠っているの」
 という。
「二、三分眠り込んで、気が附いてピアノ弾いて、また眠るの」
 背もたれのある、しっかりした椅子だから、そんなことが出来るのだろう。

年をとった人はよくこんな居眠りしてる。


『ピアノの音』は実名でそのまま書かれた70代庄野潤三夫婦の二人暮らしの日々。10冊ほどもあるシリーズの1冊で、まだ読んでいなかったこれを古書店で見つけたのだった。ピアノだー。花が咲いた、孫がてがみを書いた、いただきもののぶどうをおいしく食べ終わったらちょうどまたおいしいぶどうをいただく、「よかった」「うれしい」「よろこぶ」という表現に何のひねりもなく、最小限のエネルギーで書きつがれていった長編である。本当にそれだけの内容だ。

「山の下」へ。
 夕方、十九日のヒルトン一泊と「武蔵野」での夕食の予約を頼みに行きましょうと妻がいい、一緒に「山の下」へ。古賀の鈴木さん(あつ子ちゃんのお父さん)の古稀のお祝いの封筒を持って行く。日曜日で家にいた長男が出て来る。十九日は宝塚歌劇団の招待で、東京宝塚劇場花組の公演を見に行く。終ったあと、阪田寛夫を誘ってヒルトンの「武蔵野」で夕食を食べることにしている。帝塚山の講演会で阪田が由佳理ちゃんの歌を話の間に挟むようにしてくれ、何かと気をつかってくれたことへの慰労というつもりでいる。そのあと、こちらはヒルトンに一泊する。
 長男、「分りました」という。ヒルトンに勤めるようになって二十年になる長男にひとこといっておけば、「武蔵野」のマネージャーにいい具合に頼んでおいてくれるのである。
「おいしいの、出してね」
 と妻はいう。これで、十九日の「武蔵野」は安心。マネージャーが万事いい具合に料理を出してくれるから。こちらはテーブルにつきさえすればいい。阪田には、十月五日帝塚山講演会の慰労ですということを、はがきで知らせてある。


東京近郊的礼儀と親密さをもった3世代家族、ご近所、クウネル的な消費生活。悪いことは語られない。語らないという選択があるのはもちろんなのだけど、実際、悪いことがあまりなさそう。時間にゆとりを持ち、注意深く動き、大事な人をよく観察しているので、何につけてもまちがった判断をすることが少ないのだろう。
収入についても全く語られないけれど、たしか別の作品には墓参りの旅行のための積み立てを毎月10万円ずつしているとあった。子どもたちは車ですぐ行き来できる範囲に住み、友人知人との交際は豊かだが皆長年のつきあいで落ち着いており、大病や怪我をしている人も少ない(とは言え親友の小沼丹の大病が少し書かれているし、のんびりしているゆえに長女の怪我にはギャー!となるけれど…)。
表現するというのは一種の「飢え」なのだろうか。ここには、表現しよう、物語ろうという悪い熱がない。といって淡白でもなく、むしろ過剰なのだ。ただただ単純なことば、日常の些事を継続させることで読むうちに脳がとろんとろんにとろけていき、それからやおら体内の毒素(?)が吹き出し、すうっと意識が醒め、清澄に醒め、自分が何人もいるような気持ちで、多角的とか複眼的といったらいいのかもしれないけど、落ち着いていろいろ読む。無口な孫娘のフーちゃんはどんな女の子になるのかなと気になるし、同時進行して妻が読んでいるドリトル先生や『狐になった奥様』のこと、下世話に夫婦の実娘である長女と嫁たちの距離のことも考えるし、「おいしかった」としめくくられる食べものでも少しずつ前後の表現の違いをかぎとってフフフと思うし、最後に何が残るのかというと、本を読み終わったわたしが座っているだけである。でもなかなか楽しかったなあと思う。


筆者の奥さんはちょっとした動作に「いそいそ」という擬態語がつきそうな面白い可愛らしさのある人。悪いことが書かれないこの本を不気味さから救っている。庄野潤三はこのシリーズで悪意を書かないけれど、悪意を書けない作家ではない。悪意のない作家でもない。悪意に対する偏頗な執着がない作家なのだ。