これも古書店で

山口瞳『小説・吉野秀雄先生』(文春文庫)。
山口瞳が亡き師のことを想って書いたもの。
名のある学者や作家が教授陣に名をつらねていた幻の無認可大学「鎌倉アカデミア」。少年期をぬけたばかりの山口瞳はそこで歌人の吉野秀雄の講義を受ける。記憶を行きつ戻りつしつつ読者と一緒になって人物像を探っていくスタイルは、以前読んだ『血族』でお母さんのことを考えていくのと同じで、『血族』と同様にこの本も面白かった。山口さんといえば先日の柳原良平『船旅の絵本』では解説を書き、サントリーの広報部勤務時代に開高健柳原良平と3人で机を並べていたこと、それ以来の親交をもとに個人的な視点で柳原良平の人柄と作品の良さをわかりやすく説いていて、今、私の中でアツい存在。語り手として信頼できる文章を書く人だと思う。書かれた内容をうのみにするというのではなく、山口さんの声にはなんだか耳を傾けてしまうのです。好きっ。妻子がある上に故人なのが残念だわ。
すごーく久しぶりに、ウイスキーを飲みたくなりました。もちろん、サントリーのね。


この本では吉野秀雄の他、川端康成山本周五郎高見順木山捷平内田百輭の思い出を書いていて、これも私にとって豪華なメンバー。吉野秀雄は会津八一の弟子歌人であることを知っていたのと、白洲正子と対談しているのを読んだことがあるくらいですが、その対談がとても面白かったのは印象に残っています。少し上の世代(かな?)の折口信夫を思わせるような知的・肉体的巨人なのですね。交合を通じてでないと理解し得ない世界があるという信念もちょっと似ているし、万葉集の講義にしても、理詰めではなく身体の中にいっぱいエピソードを持っていて、ぼろぼろと惜しみなく落としていってくれるタイプ。
山口瞳がこのような人たちと縁があったことを初めて知りました。川端康成についても多くのページで語られています。鎌倉でお隣さんだったそうで、山口さんの母君と川端夫妻は親友のように親しかったというし、川端康成の長編『山の音』に出てくる「雨宮家」は山口家のことなんですて。
山口さんは彼ら先輩たちと文学問答をするようなことはほとんどなかったそうなのだけど、人間関係や日常の中での身の処し方、生き方の中から自然に教わることがあったといいます。
彼らと1対1で対峙することもある(読書ってそういうものかも)一方で、文壇の先輩として、人間としてリアルに「おつきあい」するエピソードもあり、両方が分かちがたくまったりと一体化しています。お葬式に出るエピソードがけっこう出てきて、うすらぼんやりとした記憶のつらなり、人の生き死にの連続していくあり様にぞっとする瞬間も。
つまり、川端康成という文学者を語る文章そのものが、個性的・文学的なので、二重の奥行きがあるということ。


とりとめのない感想ばかりだけど、サラリーマン小説家・山口瞳らしいというか、今でいうところの「空気を読む」ことで守られる空気があるというシーンもありました。

 たとえば中央沿線作家という言い方がある。それは非常に文壇的な感じがする。これもうまく言えないのだが、私にはそういうものを大事にしたいという気持がある。そのなかへ異質な者が割ってはいる感じで伺ってはいけないのではないかと思った。わるいたとえであるけれど、常連の多いふるい酒場へ出かけるときのような気持である。私は常連ではない。その酒場にはルールがある。私はルールを知らない。
 これも梅崎春生さんの葬式の帰りのことであるけれど、小島信夫さんと庄野潤三さんと私の三人で新宿へ出ることにした。こういうときに、電車に乗るのか、タクシーに乗るのかということがわからない。かりにタクシーだとすると、順序からいって、私が駈けていって自動車をとめなければいけない。また新宿へ行って、コーヒーを飲むのかビールを飲むのかということもわからない。
 その日は、バスで駅まで行って、国電で新宿へ行き、コーヒーを飲んだのだと思う。バスの料金は十五円だった。その十五円はワリカンだった。
「いつも、こうなんだ」
 庄野さんが笑いながら言った。こういうのが、ルールだろう。


(「木山捷平さん」より)

おや、こんなところに庄野潤三の笑い顔が…。


語りの中から、あるシーンがぼんやりと少しずつ濃密さを増しながら立ち上がってくるのも好きなところ。
ことに山口瞳の語るそれは、人間の無意識下の不鮮明な領域、暗闇の得体の知れなさを含みもっている。平成の時代には失われた感覚が残っているようで…。
長唄や踊りなど、古い芸事をよくする家に生まれ育った人というのも理由なのかな。

 川端さんの家の庭や裏山を、うっかり掘ると人骨が出てくる。鎌倉駅に近い川喜多長政さんのところでもそうである。鎌倉は古戦場である。古戦場であり古都である。そのことも案外に見逃されているのではあるまいか。私は京都へ遊びに行くと何かのことで薄気味のわるい思いがするが、鎌倉という町もそうなのだ。
 川端家では、ずっと定期的にお祓いが行われているはずである。
 川端さんのところへ行くときは勝手口から出入りしていた。そのまま台所から入ろうとすると、縁側のほうへ廻れと言われた。
 通夜のとき、今日は門が開いていて玄関から入るのだろうと思っていると、報道関係の人が群れていて、そのなかを押しわけるようにして進んで行くと、やはり勝手口に通じていた。
 葬式のとき、川端さんの遺体は、勝手口から出ていった。弔問客は、勝手口から入って玄関の脇から門を通って出て行くのである。
 川端さんの家の門と玄関は入るところではなくて、出て行く所である。おそらく、鬼門に当るとか、何かのわけがあるのだろう。私は、そのわけを、川端さんからも奥様からも聞いたことがない。
 ノーベル賞のときも、その門は、客を迎えるためには開かなかった。近所では、地獄の釜のフタがあいても、川端家の門は開かないと言われていた。
 余計なことのようであるけれど、そういう心持でもって『山の音』を読めば、別の味わいがあるように思われる。
 私など凡俗の輩には、門を閉じたままの家に三十年ちかくも住みつくというのは理解を絶する事柄である。川端さんには、そのように、わけのわからないところがあった。川端さんは、古い人なのか、新しい人なのか。あるいは、川端さんは無関心の人なのか。お祓いをしたければしたらいい、門を締めたければ締めっぱなしにしておけばいいといったような――。それとも、川端さんの心の芯に何かの怖れがあったのだろうか。そんなふうに考えると『山の音』の不思議な戦慄が伝わってくるような気がする。『山の音』は父子相姦の小説である。川端さんは、私たちと別れたあとの深夜の書斎で何を考えていたのだろうか。


(「隣人・川端康成」より)

山口家が鎌倉に住んでいたころ、お隣の川端家には夜の23時に訪問するのが慣例だった。
不眠症川端康成は昼間はできるだけ眠って深夜に原稿を書くので、書く前のひとときの時間、山口瞳は母や妹とともに川端家におしゃべりに行く。夏の深更のこと。


解説は野呂邦愓。