江分利満氏の優雅な生活

山口瞳江分利満氏の優雅な生活』(新潮文庫)。江分利満(えぶり・まん)は電機メーカーの宣伝部に勤める30代サラリーマン、酒乱の紳士。川崎市の社宅住まいで妻と小学生の息子あり。10日くらい前から読んでいた気がします。えらいことゆっくり読みました。
大きなストーリーはなく、江分利の生活について、妻子と家について、会社について、父親や母親について、酒について、借金について、東京について、頭の中について、数ページずつに章を分けていろんなことがリズミカルに語られます。社宅の庭について、だじゃれとしゃれの違い、関西の笑いについてとか、もてない江分利についてとか、公園偏愛について、とか、どうでもいい考察部分がかなり面白いです。通勤電車の中でつり革を握りながらこんなことをつらつら考えている人がいるというのは、同じ日本人としてとても楽しいこと。感性がこまかく、どういうものが好みでどういうものが苦手かというのはすごくはっきりしているけれど、世界を分類して嬉しがるという少年の遊びにはもう溺れない年齢の人の、確かな重みのある「つぶやき」。それは日本産の絹糸のようなクオリティの高さ、繊細さと強靭さ。そしてとどのつまりは全くもってどうでもいい雑談のくせにツイッターふうに簡単に吐き出さず、腹中に長くあたためておくのが、無駄に腹黒くて良いと思います。
ついでに、会社や収入については、ものが売れて売れて本気で困るという昭和の電機メーカーが舞台ですから、なるほどと思わされる時代性あり。
一方で、あんまり…だったのは既に他の作品でも読んだことのある母親の葬儀、父親の借金、腹違いの兄の話、自分の出生の話だとか。そういうウェットな話になると飽きて、読みながら他のことを考えていました(集中してない)。
「江分利満(=everyman)」を主人公にしていますが、江分利の経歴や感情は山口瞳個人のそれとほぼ重なっており、ノンフィクショナルな内容がちょっと居心地悪かったです。あと、奥さんの「夏子」さんや同僚の「柳原」も実名よ!笑。挿絵をそのまま、柳原良平さんが描いています。
ただ、既読の『血族』等と比較すると、文体だけが軽妙なものにシフトしている。このシフトによって、誰にでも書けそうな軽さが与えられています。
エッセイまんがというジャンルを思い出しました。日常の些事を、一見あまり複雑でない絵柄で、ほんのわずかの切れ目(オチのようなもの)をはさみながら淡々と描いてゆくのです。
主人公が独自の個性(日常を描いているから、その個性はライフスタイルそのものに表れる)を完全に確立すれば、彼らはある種のヒロイン・ヒーローになり、「エッセイ」から「神話(物語)」に近くなります。例えば『るきさん』のように。
それで、『るきさん』には、「るきさん」と対称される個性「えっちゃん」がいるので、「るきさん」の個性的なエピソードが親密さをもって伝わってくるということがありますね。「えっちゃん」がいない場合だと、主人公は身近な客観の視点なしで描かれるので、読者と主人公が直に1対1で向かい合うことになります。そのような時、主人公が「私(=作者自身)」として描かれると、読者は現実に存在する作者と話しているような気分になれて、反発なり共感なりの感情を容易に起こし、これはこれでやはり親密な気分で読めます。
では、「えっちゃん」が存在せず、主人公が「私(=作者自身)」として描かれることもなく、三人称の架空の存在としてその日常の些事が描かれていくとなるとどうなるか。
神話とエッセイの間。それ、普通のまんがや小説じゃないの?っていうと、そうなんですけど。
私がここでつらつら思い浮かべているのは、本の中の人物に対して私が感じる様々な距離感について、です。
「江分利満」は非常に山口瞳自身に近く、一方で山口さんはこの主人公に昭和3〜40年代の東京のサラリーマン全体を重ね合わせる意図があるらしい。直木賞受賞の本作においてその意図は見事に達成されていると思われますが、私自身は昭和30〜40年代の東京のサラリーマンではないので、読みながら山口瞳自身を思い浮かべたり、知っているような知らないような日本人の歴史的な姿を思い浮かべたり、歴史を離れて現在も電車の中で隣り合わせる自分と同年代の男性たちを思い浮かべたり、映画の「おくりびと」と同じく“失った父性を渇望する男の子”のキャラを(ムズムズしながら)思い浮かべたり、様々なぼんやりした像を次から次へと脳裏に浮かべ、ただしそれが決定的に濃密になることはなく、ひたすらに、そこにいるらしい「他者」というものに恋い焦がれながら読んだのでした。


いえ、「おくりびと」は『江分利満〜』に葬式と父が出てきたのでたまたま思い出しただけで、引き合いに出したことに深い意味はありません。余談ながら、「おくりびと」の本木さん演じるところの主人公は、電車の中で江分利タイプの面白いことはあまり考えていないような気がします。彼は面白いというよりヘンなことを考えていそうなのだけど、たぶんそれは夢みたいなイマジネーションでできていて、私にはよく分からないと思う…。でも彼には彼のことを「大ちゃん」と呼ぶ妻のヒロスエさんがいて、それでいいと思います。
つまり、えっと、『江分利満氏の優雅な生活』の途中でなんだかもじもじしてきて他の事を考えていたとき、頭の中にこういうことが思い浮かんだという感想です。