叡電の光

こぼれる光がまぶしい1日。全部のカーテンを閉めた部屋にさえ静かな明るさが満ちていました。平和です。
そして気温は完全に秋、というかもはや寒かったので、分厚いセーターに膝までのウールのスカートでも履いてのんびり散歩したかったのですけども、現実は昨日今日とちょこまかと仕事の外出ばかりでぐったり。しなやかさというものが失われたこの体、節々がいたみます…。

今日を惜しむように、光あふれる「オランダの光」をもう1度見たくなりました。見ながらほんわりと寝たいです。

オランダの光 [DVD]


関係ないけど、「森ガールの語源について」が面白かった。。。カルトねたって、ついつい読みふけらずにはいられません。
NGM+その他の欲望:森ガールの語源について
http://d.hatena.ne.jp/msrkb/20090930/MoriGirl



さらに関係ないけど、電車の中で読んでいたものに電車が出てきました。こんな符合があると私はささやかに満たされます。
書き抜いておきましょう。

…さる女性が言っていた。朝の電車の中で紳士方がスポーツ新聞を読む、あれはちっともかまわないのだけどれど、自分だって隣をのぞきこむことがあるのだけれど、どうかして昨夜のナイターの記事を読む目がけわしい、あまりにも真剣に見える、これはなんだか陰惨でいけない、と。
 じつは存在がかかっているのです、と答えれば悪い冗談になるが、やや近くをひやりとかすめるものはある。ひいきのチームが思いがけない惨めな負け方をすると、言葉は大袈裟になるが、世の中にあって孤独を覚える、と笑っていた男がある。孤独というけれど、同じように憮然としているファンは五万どころか百万といるではないか、と言ってやると、そいつは理屈というものだ、と恨んだ。そんな翌日、たとえば電車へ何気なく乗りこむ瞬間など人前でちょっとひるむ、自分一人間違いを犯して零れ落ちたような気分になることもあるという。
 昨日の強気はどうしたい、と野球の予想のはずれをからかわれるだけでも、男子四十にして、心がくじけることはある。ささいな事柄でも、認識や判断に手痛く裏切られれば、自信喪失は全体にまで及ぶ。人の中にあって、自分は物が見えないと思うことは、自分の存在が抹殺されたような、わびしい心地にさえさせる。強いて言えば、やはり社会的存在がかかっているわけだ。
 つまり人は、現実の捉えがたさにどう絶望していようと、その場その場の区々たる事柄の判断だけに甘んじているようでけっして甘んじていない、というむずかしさがある。小事の中にも全体を認識しているような、つもりでおのずからいる。そうでなければ、たいてい生きていけない。否応なしに、世界認識者であるのだ。おそらく自分なりの、しばしばグロテスクな、公理もあれば体系もある。
 ということはまた認識者としての逆鱗もあるはずだ。つまりそこに触れられると、痛みに激怒するところの、認識の結び目か破れ目か、結び目と言っても破れ目と言っても同じことなのかもしれない。この逆鱗にじかに触れられないとしても、この把握しがたい世の中で、なおかつ全体の存在を束ねたバネして生きている、一人一派の《観念論》には、日頃からどれだけのひずみがかかっていることだろう。考えてみればつねに解体の危機にあり、こちらをあっさり否定してくる現実にたいする憤りの中にある。


古井由吉『招魂のささやき』より)

誰しもそれなりに思い当たることがあって、新しい発見のある内容ではないけれど、最初のほうの、冗談すれすれの「陰惨」さを指摘される男性の表情。由吉じーさんの随筆調の文章には謎の魅力があります。