読んだ本

食べものの本を2冊。
田村勇『サバの文化誌』。
カツオでもイワシでもなくサケでもなく、1冊まるまるサバのことしか書いてないストイックな本。
魚は昔から好きですが、サバが単に食卓によくのぼる魚ちゃんたちの1種ではなく、何やら特別な存在感を持っているというのは、京都に来てから初めて感じたことです。安いバッテラの他、サバ寿司は高級品だし。柿の葉寿司もサバだし。
沖縄でも、他にも良い魚がたくさんとれるのに、贈答品としてサバが贈られるらしい。
そのようなサバのオーラについて、広く浅く文献を集めて解説しています。単行本ですが新書の手軽さ。平安時代の歴史書など、そんな文献にもサバが出てくるのか、というのをさらっと学びました。漁獲量が多くて魚の姿がよくて、鮓・塩辛・魚醤などたっぷり加工もできたというのが、奈良時代以来の勝ち組のポイントらしい。淡路島の古い郷土料理「サバのすきやき」なんて、食べてみたいものです。灰谷健次郎『海の図』に出てくるんですて。


サバの文化誌




佐川光晴のエッセイ『牛を屠る』。筆者が小説家になる前、埼玉県の食肉処理場で10年間働いた経験をまとめたもの。
この人は北海道大学の法学部を卒業し、1年間東京の出版社でつとめた後に屠畜場へ勤務し始めるのですが、なぜ屠畜場を思いついたのか、という問いに対しては、この『牛を屠る』と補完しあう関係にある小説『生活の設計』の冒頭、「わたしは汗かきな人間だ」がいちおうの答えといえるでしょう。屠畜場は温度と湿度が高く、汚れるしにおいも強いので、風呂に入って帰れるように中に浴場が設置されています。もともと汗かきならば、いっそとことん汗をかくところで働こうというので、職場選びのポイントが「身体」にあったという点、働き方に悩む人の多い現代日本では、必要かつ面白い視点になっていると思います。実際に筆者はそこで10年勤務し、非常に危険できつい労働に苦しんだりしつつも、努力して勤め上げるに足る職場だと結んでいます。
それでも初日は、「ここはおまえのような経歴の者が来るところではない」と怒鳴られながら勤務開始。それがだんだんと仕事も身に付き、以降10年、牛や豚の解体作業をしながら生活を続け、大学卒業とともに結婚していた妻との間には子どもも生まれ、勤務の合間に書いた長編小説が新人賞を受賞して、専業の作家になったとのこと。その新潮新人賞を受賞した小説が先ほどの『生活の設計』で、やはり食肉処理場で働く「私」の生活や考えが饒舌に語られています。
『生活の設計』『牛を屠る』ともにこのよどみない饒舌がくせもので、どんどん読まされる一方、「わたしは汗かきな人間だ」と冒頭で答えを提示したように見せながら、それは究極の唯一絶対な答えではなく、屠畜という技術の凄さや社会における必要性、昼ごろで勤務が終わって帰宅でき、フルタイムで働く妻と一緒にうまくライフスタイルを作っていけるという利点、しかし心身にかかる負担や危険の大きさ、妻の実家など「社会」から投げられる妙な蔑視、望んでいた子どもがなかなかできないのは自分がこういう職についているからでは?と考えたこと、その合間合間にさしはさまれる、なまなましい肉の熱さと匂い、筆者のますらおぶりというのか、男性らしい人柄があらわれているような、すべてをかい撫でる、どこかすっとぼけてのんびりとした日々の暮らし……運び込まれる牛の体に切れ味鋭いナイフを入れるように、生活というものをちゃくちゃくと解体し、また統合し、さらに解体していって、知の沼で読者をアップアップ溺れさせるような。可笑しくもなってきます。情報量が多いです。
ただ、饒舌でも非常に読みやすいですし、頑固だけれど捻くれてはいなくて、読者に対して優しい作家。人生が肯定されています。書いてる側はうっすら余裕があります。
語る人の影には語らない・語れない人が数多いて、言葉ってひどくうさんくさいものでもあるんですが、語ってもらえることの幸福ってあるな、と。
『生活の設計』が賞をとって話題になった時、職場の反応が少し不安だったということも書かれています。受賞しなければ誰も読まなかったかもしれないけど、読まれてみると、小説のモデルは同僚たちにとってはまるわかりですから。これは、どんなに面白い小説でも、同僚にとってはいい気がしなかったかもしれません。当時は、その問題についてまだあまり考えていなかった筆者。同僚たちは何も言わなかったそうですが、とにかく書いて発表した以上、筆者はそれを背負うしかありません。


それと、話は変わりますが『牛を屠る』でもう一つ興味深かったのは、筆者が食肉処理作業を「屠殺」と呼ぶことを主張し、内澤旬子さんの「屠畜」という用語へ反論をしていること。
内澤さんは『世界屠畜紀行』で「屠畜」について説明していましたが、うろおぼえの主張をまとめると、牛や豚を殺すのは食肉処理作業中の一過程にすぎず、その後の解体作業や皮なめしなど、消費されるまでの長い過程にこそ、その土地ごとの高い技術があらわれており、作業全体を尊重するために「屠畜」と呼ぶべきでは…という感じだったかと。
一方、佐川さんは、実際に食肉処理場で勤務していた時、殺すことはやはり一つの大きな壁であることを実感し、殺せなければ絶対にその後の仕事はできない、「殺」の意味を隠蔽すべきではない…といった主張。そして、牛や豚というのは、息絶えた後も血がまだまだ沸騰するほどに熱く、同時に、作業をしている自分自身も、何かのはずみで手を切ったりした時、流れ出る血は同じくらい熱い。食肉処理は、生死を扱う作業なのだということ。
私としてはどちらでも全く構いません。両者に共通しているのは、「とりあえず『と畜』はないわー」ということでしょうか(笑)。私は、ツマブキ君が出ていた映画みたいに、小学生に無理くり豚の解体を教えることはないんじゃないか、死から遠ざかっていられる間は遠ざかっていてもいいのではと思いますが。無知は罪なのかな。戦争の事実を知らないのは罪だけど、食肉の事実はね。無知が妙な嫌悪を生みさえしなければ、まあええのでは…と思ってます。
こんなに長々と書きながら、私としては特になにか言いたいこともなく、1頭1頭それぞれに生きていた牛や豚をおいしく食べるということへの悩みとか迷いも全くないのですが、読みながら、人間が人間に体を与えること、臓器提供や献体のことを考えていました。あと、ヨーロッパのエンバーミング技術など。


なお、先ほど書いた本文の饒舌さについては、こちらの引用を読めば伝わるかと思います。
紀伊国屋書店「書評空間」:阿部公彦さんの書評
http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2009/08/post_45.html

食肉処理場での労働や肉の流通については、鎌田慧『ドキュメント屠場』(岩波新書)という名著もあり。1988年の刊行なので、ナイフが電動化されていないなど、技術がちょっと古いようだけども。また、食肉処理というのは肉体労働の他に、獣医師の免許を持った方々による日本独自のしっかりした衛生チェックなど、科学技術の面にも注目されていいと思います。


牛を屠る (シリーズ向う岸からの世界史) 生活の設計 ドキュメント 屠場 (岩波新書) 世界屠畜紀行