遊びをせんとや生まれけむ

ルナティックス - 月を遊学する (中公文庫)

…「遊星的失望」とは、本書が隠しているアンダーモチーフのひとつであって、もともとは「遊星的郷愁(プラネタリー・ノスタルジー)」から導かれてきた感慨だ。これは、しょせん地球から脱出できないこの身なのだから、せめて地球に生まれてきたことを失望しつつ、けれどもやはり地球にしか生まれえなかった自身の宿世の余分の息を、いっとき届かぬ月に託しつつ、いたずらに月の話などしてみようという、そういう感慨だ。しかも、そのことを誰かに説明したいような、誰にも説明などしたくないような、そんな奇妙な感慨なのである。
 あえて言葉にするのなら、さしずめ種田山頭火の句「月があかるすぎるまぼろしをすする」のようになってしまうかもしれない。まさにこういう幻をすするという感覚なのだ。


松岡正剛『ルナティックス 月を遊学する』。上の引用の「遊星的失望」「遊星的郷愁」は全くもって松岡正剛の感性の原点の一つでしょう。
全体が12の章に分かれ、月神の系譜、月の科学史、魅力的な月の詩、魅力的な月の小説、魅力的な月の随筆、月にまつわる習俗、月と電気の取り合わせ等等、絵画や図を集めたページもあり、多彩に語られていて飽きません。ただし12章の構成はゆるく、松岡正剛による何らかの論が積み上げられていくわけではなく、書かれている知識も学術書のようには信頼できないので、ゆったりと読みつつ、自分という1個の人間が月という存在から何を感じるか、なぜそのように感じるのか、そこには人類共通の/地域共通の/女性共通の/何かしらの他人との共通項のもとでの感性が働いているのか、そこに自分独自の感性というものがあるのか、振り返る時間になりました。
さかのぼっていくと、月に対するイメージの刷り込みはかなり幼い頃になされてしまった気がします。かぐや姫星新一がとても面白い解説エッセイも書いている)、かごめかごめ(つーきーよーのばーんに)、親から買い与えられた世界の民話の絵本のセット。この30冊ほどのセット絵本が大好きで、ぼろぼろ状態で今もあります。かなりの頻度で月が登場するんですよね、ひとつひとつはごく小さな場面なのだけども。
夜歩くとき、必ずといっていいほど月を見上げているのに、その時に思うことといえば「今日も月があってよかった」というほんのりした安堵。オールドタイプに、重力のままこの地面にこそ、へばりついていたいのだなあ。そして月の存在を感じていたいのだ。