恋しくば たずね来てみよ 信太なる…

和泉の森の、うらみ葛の葉。


先日の土曜は文楽に行きました。昼の部、予想外の満席。だいぶ後ろの方の席になり、着物の柄とか、人形が(ちょっとめずらしい)狐の面をかぶっているところとか、細かいところがはっきり見えなかったので、適当にきょろきょろ楽しんでいました。


演目は芦屋道満大内鑑、あしやどうまんおおうちかがみ、と読みます。芦屋道満というのは平安中期の陰陽師ですが、実際に芦屋道満が登場する場面はなく、狂言のメインは道満のライバルであった陰陽師安倍晴明の出生にまつわる物語。
晴明には天文学者であった安倍保名を父に、和泉の信太の森に住む白狐を母に持つという伝説があり、人間と狐の典型的な異類婚姻譚、複雑な物語のからくりから安倍保名は狐を狐と知らず女房にし、一時は親子3人で仲睦まじく暮らしますが、最後に狐は正体があらわれ、子まで生しながらも別離せざるを得ない哀れさが、たっぷりとしたクドキで表現されます。1000歳になるという白狐が、狐としての誇りもあっただろうに、獣である自分を恥ずかしい、置き去りにしていく子をかわいい、夫を恋しい、惨めで哀しい、と思いながらただうなだれてとぼとぼと去っていく姿の本当にかわいそうなこと。
優しく愛おしい狐女房、「葛の葉」の人形遣い吉田文雀さん。


ちなみに安倍晴明はこの狐の母の伝説とともに大阪の出身であるように言われていますが、香川県の出身とも、茨城県の出身とも、それぞれ文献が残っており、史実としては香川県説がわりと有力なのでは。実はうちの実家の隣町にその晴明由来といわれる神社がありまして、讃岐国から都へのぼってスーパースターになった平安時代の人物として、空海安倍晴明には親しみがあるのでした。
また、今回の公演は夜の部で心中天網島がかかっており、これは私を本格的に文楽に引きずり込んだ演目で、近松門左衛門といえば曾根崎心中ではなく心中天網島こそが最高傑作であると信じてやみませんが、既に数回見ているし、思い入れも強いので、気楽に見られる昼の部の芦屋道満の方に行ったのでした。


かけられた全五段のうち、前半の三段はぼちぼちと。
床、咲甫大夫さんはますます快調な朗々たる語り、声が真っ直ぐ前に伸びて聞き良いけれども、言葉は耳に残らず、むしろわざわざ聞かせようと丁寧に繰り返した語句ほど、私にはちょっと違和感が。一方で千歳大夫さんは、夏公演ほどではないけどやはり聞いていて苦しくなる発声。しかしいくつかの語句や文がゾッとするほどの神がかった鮮明さで耳に焼き付きます。とりわけ、千歳大夫さんは「ハッと驚き」という時の「ハッ…」や「くるくると舞い」の「くるくる」等、オノマトペでの声の出し方や間合いの絶妙さがとんでもないレベルの個性でうまい。文楽のこういうところ、ほんとに好き。お2人とも、それぞれに聞きごたえがありました。
また印象的なのは、大序の冒頭が妙にこなれない漢文訓読調の詞章で、この段は御簾内で語っているので大夫・三味線ともどなたかわかりませんでしたが、語りにくそうな詞章だなと思いました。逆に、子別れまで来ると詞章が驚くほどストレートで、狐の女房をもろうたと笑はば笑へ、と安倍保名がおさえることなく真っ直ぐに自分の情を開陳するのが、聞いていて恥ずかしくなるほど。保名は舞踊がすごく有名だけど、さすが面白いねー。怖いもの聞きたさ(笑)で、素浄瑠璃でもたっぷり聞いてみたくなります。
後半の二段、というか文雀さんが出てきてからは、舞台への没入度が一気にあがりました。


目の楽しみでいえば、世話物では女は結婚するといかにも「女房○○」という風情の地味なつくりで身をこしらえますが、その美しさとはまた別に、時代物は結婚した女でも派手な花柄の着物を着ていることが多いので、可愛いなあと思いながら見ています。白狐の女房が前掛けに襷をして家事をしているなんて、ちまちまと愛らしい。頭を包んでいた手ぬぐいを外してたたむ、幼子を寝かしつけて風よけの小屏風を立ててやる、そういった細かい仕草一つ一つの可愛さは人形ならではの魅力です。幼子が母親の乳をほしがるというので、未婚の姫では乳が出ないと泣き騒ぐのも、人形だといやらしくなりません。また、文楽の(歌舞伎以上の)特色として、時代物ではシンメトリーの美学が前面に出てくることが多く、左右対称で平面的な舞台の構図が武家の品を表し、目にも華やかで楽しいものです。


あとは、とにかく狐。狐。
狐、という生きものは日本の伝統芸能の中で特別な存在であり、人間に飼われる動物として猿、町の風景として犬、生活の中で鼠など出てきますが、このような芝居の中で人間と対等な「異形」として登場するのは、猫でも狸でもなく狐だけです。
狐、初登場時と正体があらわれた時とは、狐の姿そのものになり、人形遣いは一人で白いぬいぐるみを遣います。これもお持ち帰りしたいくらいかわいいです。人間の姿だったものが狐の本性をあらわした時には、人形に白いモフモフの着物を着せたり、人形に白い耳を付けたり、人形に狐っぽい仕草をさせたりして狐ぶりを表現します。大夫さんの語りや三味線の方でも、本朝二十四孝や義経千本桜と同じく、様式として見事に完成された「狐の型」がふんだんに使われます。弦が妖しくヒュイッと鳴り、台詞の中の何でもない「け」の音が突如強調され、人間だったはずの女が獣のようにペロペロと我が子を舐めて愛撫するのです。