笑え!

おれには、ひとりではジャズはできない、という考えが常にある。だが(セシル・)テイラーはそうではない。彼の音楽は彼ひとりのものだ。

(「セシル・テイラー 蜜月の終り」より)

なんと安易に、おれたちはいってしまうのだ。これではまるで、節操というものがない。ばかではないか。こう思って、自ら戒めようとした途端、心の底から、おかしさがこみ上げてきた。
「ワハハハハハハハハハ」

(「ドイツ人はウソツキか」より)

山下洋輔『ピアニストを笑え!』を15年ぶりの再読。15年! 面白く、また複雑な気持ちで、しようこともなくワハハハハハハハハハのハの数を数えたのでした。9つです。
ジャズピアニスト、山下洋輔。上記2つ目の引用でおれ「たち」と書かれたその共同体は、精神とかソウルとか、すなわち思い込みやごまかしの混じるあやふやなものによって結びついた共同体ではなく、ジャズという運動そのものによって、人と人とが呼応しあい、関係する共同体。
読むだに、なんと楽しい舞台でしょう。音楽の構築を演奏者の側から言葉にしてくれています。ピアノはあくまで道具であるゆえに、惜しみなく弾き壊されたり、燃やされたりします。興奮するわっ。
しかし、1つ目の引用部分。
ある時、山下洋輔は同業の天才セシル・テイラーのステージに衝撃を受けます。山下と同じようにトリオで演奏しているのに、ひとりでピアノを(壊さずに)ものすごいうまさで弾きまくり、ピアノをおいてひとりで歌い、踊ってみせます。山下は、トリオの運動で自足していたはずが、より広大で途方もない世界の円環を感じさせられてしまい、自分とジャズの蜜月は終わったと痛感し、圧倒的な感情に大笑いがとまらず、そしてでもやっぱりピアノを弾くのです。そこには、確かに、うっとりしてしまうような笑いを山下と分かち合う人々がいました。さらに、どこまでも静謐な白黒写真のごとき「落ち着くべきものがそこに落ち着いている」自然なさまが感じられる場面もありました。
私は山下洋輔トリオの躍動感をとても可笑しいと思い、楽しみ、憧れ、そしてセシル・テイラーの「ひとり」に今も見果てぬ異常な夢を抱き続けているようです。


ついでに、筒井康隆山下洋輔の文章の重なりに、中上健次星野智幸の文章の重なりを思い出します。
筒井康隆って何度打とうとしても、「ついつい」になって「つつい」が打てない…。
風邪が治りきらないので、体調が悪い描写はとりわけ熱心に読んでしまいました。体調が悪いと指先がぴたりと鍵盤を叩いている感じがしない、だとか。