雨月物語

岩井志麻子雨月物語』。

雨月物語

上田秋成の『雨月物語』を、全編「妾(わたし)」という女の一人称語りに変えて書いた作品。「妾」が誰なのかはいつも各編の途中や最後に明かされるので、出だしで「今回の『妾』は誰だろう?」と考えながら読み始めるのがミステリ風の楽しみでした。
しかしそれだけでなく、短編集で全部が女性の一人称というのは、独特の読み心地を作り出すものですね。わたしわたしとうるさい感じがちょっぴり(笑)。そして「妾」が語る物語の背後にずっと見え隠れする、濃厚なセックスと情緒。ポルノの官能性とジェンダーの問題提起の両面を持っており、手慣れた描写ともあいまって、レディースコミックの世界を想起させます。
また、この「妾」は普通の生者とは限らないのですが、女や霊魂が登場して「我こそは」と語り、語り尽くすと退場して1編が終わる、というこの小説の枠組みは、室町時代世阿弥が完成させた謡曲の手法と通じます。
レディコミ・一人称・霊魂による語りは、すべて岩井志麻子さんの得意とする手法ですが、『雨月物語』に適用したことで、原作のこれまであまり注目されなかった要素がうまく照射されたように思われました。
すなわち、女の妄想を丹念に書くことで男の妄想をも指摘し、かみあわない両者がともに不合理で切実であることが、結局は自然な世のありさまなのだという。江戸時代の大阪という大都市に住み教養のある男・上田秋成が、西行崇徳院を始めとする「中世的なるもの」に憧れて書いた凄絶な幻想小説という性質が、「妾」という無名の愚かな女(女ですらない者も登場します)によって、仮面をぺりぺり引っぺがされたということ。
引っぺがされた上で、「でもそんなことたいしたことじゃないのよ…」とにっこり妖しく微笑む。
各編では、「仏法僧」と「青頭巾」が好みでした。読み終わったあと、あはは!と大声で笑いたくなります。心地いい狂気の物語ですね。
さらに全体を「上田秋成の母」である女の語りがくるむという、もう1つの仕掛けが施されていて、史実では秋成の母は大阪曾根崎の遊女だったと言われていますが、大阪ではなく岡山の貧農出身の遊女だったという設定に変えたのが、デビュー以来のとことん岡山作家・志麻子さんの力技だなと思います。