書いた直後に読む自分の文章って、自分の顔を鏡で見るのと似ていて、無意識のうちに脳内修正して見たり読んだりしているみたいだな、と思います。女性がしばしば、自分が一番きれいだった時のファッションや化粧のままとどまってしまうという現象ともつながっている部分がある。この世で当てにならないものの一つ、己の脳髄よ。

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猫を飼っている人の多くが、飼い猫にじっと見られる経験をしていることでしょう。「注文の多い料理店」で鍵穴から覗く山猫の目は、人間に、自らも生態系の食物連鎖のうちにいることを気づかせるものだ、という解釈もある。山中で出くわした狼や熊に襲われるのとは逆で、飼ったからこそ見られるんでしょうね。家の中に野生がいる、という。山猫は山の中に屋敷があります。猫に人間が食われるという話は、どこまでさかのぼれるのかな。

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昨日は文楽に行きました。二人禿・彦山権現誓助剣・壺坂観音霊験記の回で、仏教的な救済がラストにくる壺坂〜、儒教的ポジティブな行動力が印象的な彦山〜というとりあわせ。
壺坂〜は、未明の闇をとうとうと流れる水の話。とうとう、とうとう。低い太鼓の音。憂きは浮き。茫漠たる水色。目の前の人の顔すら見えない目。
彦山〜今回は、欧米でも通じるコメディやホラー/文楽特有の論理や情緒、の境目にあるような芝居と感じました。素直にけらけら笑えてたいへん楽しく、ぐっとくる箇所も多々あったのですが、聞きやすさ見やすさが増すほど、反比例するように文楽の陰影は薄れていくような。などと思ったのは、美声の呂勢大夫さんの出だしがちょっと力が入っていないような、軽さがほんの少し気になったからかもしれません。
義太夫節というものをもっともっと聞いてみたい、とあらためて思いました。単なる美声を至上とする世界ではないし、言葉をこねくりまわすのもだめで、やはり「息」かなと思う。間、アクセント。三味線が絶妙にそれを助けます。
文楽の濃厚さだとか、理不尽であるのにどうしようもなく心を動かしてしまう圧倒的なスケール感は、時代とともに少しずつ変質してきているのだろうか。今この瞬間も。
彦山〜で、主人公がずっと家を離れずにいるところへ人々がたずねてきて物語が進行するというのは、「道行」型の逆のようでちょっとめずらしく感じました。ラストではやっぱり家を出て行くんですけども。家にいるのが若い男、たずねて来るもののメインが老人たち、あと主人公に対して女と幼児が可愛くはっちゃけている、という登場人物のバランスも面白かった。尺八をむりやり火吹き竹に使ってしまって、自分で自分の失敗に笑ってしまう嫁き遅れ娘の可愛さと肺活量がむちゃくちゃすぎます。

文楽は初めてという人と一緒に行き、私とは違う見方をあれこれおしゃべりできたのも楽しいことでした。「べるばらを文楽に移植できないの?」「いやー難しいかも?どうかなぁ?」 しかも電車でさらなる知人と出会い、2人してその人に文楽の説明をする金曜夜の車中(3人とも飲んでいる)。その説明がまた、私と某さんとで微妙にポイントが違っているのが可笑しいです。