カフェでピアノリサイタル。

ピアノ 小杉真二
cafe Montageにて


ラモー  やさしい訴え
     鳥のさえずり
     エジプトの女
ドビュッシー 子供の領分
        グラドゥス・アド・パルナッスム博士
        象の子守歌
        人形へのセレナード
        雪は踊っている
        小さな羊飼い
        ゴリウォーグのケークウォーク
ショパン ノクターン 第3番 ロ長調
     バラード 第1番 ト短調
     子守歌 変ニ長調
     舟歌 嬰ヘ長調

ドビュッシーが活躍していた頃の、パリのサロンコンサートという趣き。
うう、また記憶が不正確なのですが。アンコールはショパンノクターンとか、前奏曲(太田胃散のCMの曲)とか、グルックの精霊の踊りとか、たくさん出てきました。
ドビュッシーが良かったな。1曲目の《グラドゥス・アド・パルナッスム博士》から最後の《ゴリウォークのケークウォーク》まで、曲ごとの味付けを鮮やかに変えていて、どれもすばらしい完成度。隣に座っていたおしゃれ女子と、後でワイン飲みながら(このカフェは演奏後に飲み物がふるまわれるのです)「ドビュッシーよかったですねえ」って盛り上がったくらい。
ショパンのバラ1も歯切れ良く、かつ絶妙の哀愁をもって弾きあげており、うっとりしました。



このカフェでは「ピアノリサイタル」は初めての試みだそうで、というのは、やはりピアノリサイタルというのは、コンサートホールで異様なほどの集中力とともにどーんと行うのが一番向いている形式であり、たった一人のピアニストと大勢の客の対峙という要素が強く、この40名ほどが定員のカフェでは難しいから、と。この会場に不足があるというのではなく、他でもないこの場、この空気や時間にこそふさわしいピアニストでないと、意味がないというオーナーの考えだそうです。
私も今回はちょっと心配でした。これまでの公演だと、ピアノソロの演奏会でも「ピアノリサイタル」というタイトルではなく、「夜想曲」とか「追悼の音楽」とか、曲目のコンセプトに重きを置いたタイトルがついていたのです。それが今回は「ピアノリサイタル」と冠された公演。でも決して、演奏者のプロフィールを推す形では宣伝しないのがこのカフェ。そこで何を体験できるんだろう? 曲目はすごく聴きやすそうな感じだけど、いわゆる「名曲の夕べ」とか、「若いピアニストを紹介・応援!」みたいなのは興味がないし…。もちろんピアノ音楽は好きだから、どんな内容であれ楽しめるにしても。でも。
行ってみて、なるほどと思いました。今回は、リストから連綿と続く「ピアノリサイタル」というジャンル自体を1つの演目、コンセプトとしてあげている公演なんだなーと。ピアノリサイタルというものを客観視するその批評精神が好ましかったです。
なんと言ったらいいのかな。その場の中心にピアニストただ1人がいて、彼だけをじっと見て、その音楽に耳を傾けるわけです。「音楽」には、そういう側面がある…。わかっていたことだけども。普段は、そのピアニストのプロフィールやスター性があまりに重視されすぎていて、スターを聴き比べ、次々に消費していくこと(なんだかみっともない行為)に夢中になってしまい、サロンコンサートのような、人と人の偶然の出会いによる小さなリサイタルを楽しむことが少ないように思います。
演奏は、曲目もぴったりだったし、このカフェのアンティークのスタインウェイが嬉しそうによく鳴っていました。よく考えたら、このスタインウェイたんが主役になることってめったにない。音が減衰する時にちょっと癖があるんですけど、それがいい味になっていて。カフェのお手伝いをしている素敵女子(ここはオーナーの文化系男子と予約の受付や飲み物の用意などをしている素敵女子のお2人で切り盛りされています)が、「弾きにくいピアノやのに、すぐに特徴をつかんでくれはったんですよ〜」と言うてはりました。わかるー。そんな感じ。
リサイタルにふさわしい、才能のきらめきを感じるピアニストでした。



このカフェでラフマニノフなんかも聴いてみたいです。ピアノでなくても、チェロソナタとか。ロシアプログラムも面白そうな気がします。

カフェでバイオリンソナタの会。

バイオリン 田村安祐美
ピアノ   塩見亮
cafe Montageにて


ベートーベン バイオリンソナタ
 第1番 ニ長調
 第5番 ヘ長調
 第8番 ト長調


歌がねえ。シンプルで、骨太で、優雅で、それがすばらしく生き生きしていて。胸熱。ベートーベンはええなあ。


きっちりした演奏で、それをカフェの距離で直に聴くと、曲を形作るいろいろなパーツがよくわかって面白いものです。バッハのような対位法とはまた違うのだけど、リズムの掛け合い、跳躍の仕方、高い音と低い音のドラマチックな対比、明るさと暗さの移り変わり…激しく変わるところもあれば、微妙に移ろうところもある。曲全体で大きなドラマを描こうとする、構成への自覚がある。
でもそういった興味以上に、この夜は歌に聴き入ってしまいました。人間肯定の喜びに満ちたベートーベンらしい歌でした。


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ちなみに、このデュオをお聴きするのは2度目。今年の6月だったか、このカフェで同じデュオによるバイオリンソナタの会があり、軽い気持ちで行ってみたのです。
カフェのオープンが今年の5月、私は演奏者についても会場についてもまだ知識がなく、ついでに曲も知らず、ただなんとなくいい匂いがするな〜という程度で。
その時はフランク、モーツァルトグリーグソナタが演奏されたのですが、やはり気品高くもがっつり魂の入ったバイオリンで、3曲ともすばらしく魅力的でありました。フランクの晩年の曲から円熟期のモーツァルトの曲、そしてグリーグの若かりし頃の曲と、作曲家の年齢をさかのぼっていくプログラム。それぞれに生き生きとして、かつそれぞれの作曲家の書法が明確に弾き分けられていたように思います。作曲家のバラエティの分、ベートーベンの会よりもわかりやすかったかも。
カフェのオーナーが書かれたセンスのよいプログラムノートと開演前の短い挨拶、そして演奏それじたいが語るものを合わせて、非常にレベルの高い次元で「伝えたいものを伝える」ことが実現されている場所だとわかりました。
いいところです。京都にお住まいの方はぜひ。
http://www.cafe-montage.com/index.html

カフェでルネサンスリコーダーの会。

ルネサンスリコーダー 濱田芳通
Cafe Montageにて


ヤコブファン・エイク 「笛の楽園」より
  アマリッリ麗し(ジウーリオ・カッチーニ原曲)
  ブラヴァーデ
  優しいシレーナ
  涙のパヴァーヌダウランド《溢れよ我が涙》に基づく)
  イギリスのナイチンゲール
  美しき娘ダフネ
  ファンタジア
  道化師
  ファンタジア
  戦争
  蛙のガイヤルド


上のプログラムは、不正確かもしれないです。小曲がたくさんあって、当日配布されたプログラムを書き写してみたのですが、どこかで曲目変更もあったような気もするし…。帰り道ではちゃんと覚えていたのになあ。
ともあれ、色っぽい演奏会でした。
濱田さんはリコーダーを3本ほど持って登場なさったように覚えています。最初の数曲は太く長いリコーダーでボオーっという低い音を。これは肺活量が相当必要なのでしょうね。普通は他の楽器との合奏で適度に休みつつ吹けるのでしょうが、今回はソロのため、長い曲でも休みなしで吹き通さねばなりません。しかも超絶技巧(!)。太い指がめまぐるしく動き回り、ハッと息継ぎされる時など、なまなましい色気にどきどきしてしまいました。
曲の合間には、解説などをご本人で。濱田さんは若くておしゃれな男性ですが、演奏中の近寄りがたい真剣さとは打って変わって、にこにこと親しみやすい雰囲気でお話をされます。盲目の貴族で、科学者であると同時に鐘(カリヨン)の奏者でもあったというヤコブファン・エイクについて。教会の庭でエイクの笛に耳を傾けた当時の人々について。暮らし。恋愛。思いつくまま曲を聴かせ、サービスまたサービスで曲が彩られていくことについて。どこまで吹いたか自分でもわからなくなるので、変奏曲では曲と曲をしりとりのようにつなげて吹くことで一貫性を保っていたこと。それはゴルトベルク変奏曲などにもまだ残っていること。当時の即興について。などなど…。


それらの時代はとてもとても遠い。
ファン・エイクにも、当時の誰にも、私たちは感情移入をしない。
ただ、日常の隣人への愛とは違う、遠いものと不思議な愛でつながっている。


休みつつまた笛を吹き、吹いてはまたお話を。《イギリスのナイチンゲール》など、小鳥の声を模したような曲は細く短いリコーダーでピロピロと。終盤、道化師やファンタジア、戦争、蛙のガイヤルドなどは、中くらいのリコーダーだったかな? どの曲か、とてもきれいな曲がありました。ファンタジアだったかなあ。


やはり不正確な記憶ですが、こんなことを話されていたのが印象的でした。


“当時の音楽家について、わからないことはいっぱいあって、僕もつい最近ちょっと調べてみただけなんです。その時に驚いたのが、普段、演奏家は、自分の好きなように演奏したい、お客さんを楽しませるとか、媚びるとか、何も考えたくないと思ってる。なのに、当時のことを調べれば調べるほど、当時の音楽家は、僕たちの一番したくないこと…道化師のようにお客さんを思って演奏している。”


困ったように、でもにこにことおっしゃっていました。


アンコールは2曲。2曲目は、飛び入りのタンバリンとリコーダーの楽しいセッションに。

近くのカフェでクラヴィコードによるC.P.E.バッハ演奏会。

クラヴィコードおよびプリペアド・ピアノ 大井浩明
Cafe Montageにて


C.P.E.バッハ ヴュルテンベルクソナタ
第1番 イ短調 Moderato/Andante/Allegro assai
第2番 変イ長調 Un poco allegro/Adagio/Allegro
第3番 ホ短調 Allegro/Adagio/Vivace
第4番 変ロ長調 Un poco allegro/Andante/Allegro
第5番 変ホ長調 Allegro/Adagio/Allegro assai
第6番 ロ短調 Moderato/Adagio non molto/Allegro


アンコール
C.P.E.バッハ ジルバーマンクラヴィーアへの別れ
ジョン・ケージ 孤島の娘たち(プリペアド・ピアノによる演奏)


クラヴィコードを生演奏で聴くのは、人生で2回目。初めて聴いた時も「(ピアノに比べて)音が小さいからしっかり耳を澄ませてくださいね」と言われましたが、今回も、小さい音!というのが最初の印象。でも前回は2〜3曲しか聴けなかったのに対し、今回は2時間近くたっぷり聴けたため、香水が肌につけた瞬間から刻一刻香りを変化させていくのを味わうように、クラヴィコードにもどかしく聴き入る最初の感じから、音の雨に降りこめられるような濃密な第二の時間、曲そのものを知的に楽しむ第三の時間、名残のアンコールまで、堪能できました。


第一の時間。
精巧なドールハウスに見入るような時間。
クラヴィコードはただ音が小さいのではない。サイズが小さいだけで、その中にはすべてがあることを知る。現実そっくりの小さな異世界ドールハウス、ミニチュアというのは、実際にそこでは生活できない偽りの空間なのだけど、あたかもその中に吸い込まれるように、小さい空間にいるような錯覚を起こさせる。
C.P.E.バッハヴュルテンベルクソナタを弾き始める前に、導入として、父J.S.バッハが同年に作曲した有名な曲をひとつ弾いてくださいました。
ゴルトベルク変奏曲より、アリア。
かそけき音に、耳をそばだてる。クラヴィコードで演奏されるこの曲は、ひそやかで、本当に美しい。これと同じ年に書かれた曲か…!ということで、ヴュルテンベルクソナタへの期待が一気に高まる。


第二の時間。
ドールハウスに本当に入り込んでしまった時間。
耳が音に慣れたせいでしょうか? コンサートホールの演奏会で時々経験するのだけど、演奏会の途中のある瞬間から楽器が驚くほどよく鳴り出して、会場に音がみっしりと満ち、頭上から音が降り注いでくる感覚。コンサートホールのピアノでなくても同じことは起きるのですね。音響学で何か名前がつけられているのかな、この現象。クラヴィコードの音はリュートによく似ている。チェンバロとは全く違う。きれいな音。


第三の時間。
さて、今宵のお師匠、C.P.E.バッハさんをまじまじと観察する時間。
CDも数枚持っているし、自分の中ではわりとメジャーな作曲家なのだけど、さて、この人の曲というのは華やか、耽美、優雅、多感でちょっと意地悪、文章で表現するなら三島由紀夫の文体で書き記したい感じ。……と思い込んでいたのが、よくよく耳を傾けてみると、意外に多面的。このフレーズの作り方、鬱と陽のめまぐるしい転換、突然の休止、急―緩―急の構成、むむむこれはもしや…と思っていたら、曲と曲の合間に演奏者が「このタタタターというリズムは、ベートーヴェンの《運命》の動機と同じです。書かれたのは《運命》の60年くらい前ですが」と仰る。そうか!古典派だ! 普段好んでよく聴いているハイドンの鍵盤ソナタに、これらの要素がたくさん出てくる。J.S.バッハモーツァルトショパンみたいな流れの傍らに、C.P.E.バッハハイドンベートーヴェンみたいな流れもあったのね。要素がほどけてくると、曲もさらに楽しく思え、1曲1曲好奇心をかき立てられながらどんどん聴いてしまったのだった。第4番のアレグロは特に面白かったです。超絶技巧もたっぷりで、第4番〜第5番は客席もやんややんやの喝采


アンコールの時間。
一転、これぞC.P.E.バッハ、これぞクラヴィコードという優雅な1曲。
C.P.E.バッハが愛用のクラヴィコードを弟子に譲る時に書いた曲だそうで、演奏者は「激鬱な曲」と仰ってましたが、私には遊戯的な悲しみに聴こえました。本心から辛がっているというより、新古今和歌集を思わせる、シチュエーションにのっとった悲しみというか。でもそのクラヴィコードを譲り受けた弟子は嬉しい嬉しいと能天気きわまりないバカな曲を書いたそうなので、C.P.E.バッハさんは本当に心底悲しかったのかもしれない。笑。うっとりするような曲だったなあ、また聴きたい。
そしておまけにもう一転、クラヴィコードを吹き飛ばすジョン・ケージの1曲。
プリペアド・ピアノを生演奏で聴いたのは初めて。曲の構造はなんだかよくわかりませんでしたが面白かったです。市販の楽譜を普通に使っているのが新鮮だった。そりゃジョン・ケージくらいだと市販されてて当然なんでしょうが、いやー。楽譜、売ってるんだ…的な。笑。このカフェで、近い日程にジョン・ケージの演奏会も催されていたので、その宣伝もかねてというか。


演奏が終わった後、クラヴィコードプリペアド・ピアノにさわっていいですよーというので、皆で楽器に群がって楽しんだのでした。

演奏会の記録を書くのも久しぶりだ。

オール・ドビュッシー・プログラム
演奏:デジュー・ラーンキ&エディト・クルコン
京都コンサートホール 小ホールにて


・牧神の午後への前奏曲(ピアノ連弾)
・6つの古代碑名(ピアノ連弾)
  第1曲 夏の風の神、パンに祈るために
  第2曲 無名の墓のために
  第3曲 夜が幸いであるために
  第4曲 カスタネットを持つ舞姫のために
  第5曲 エジプトの女のために
  第6曲 朝の雨に感謝するために
・小組曲(ピアノ連弾)
  第1曲 小舟にて
  第2曲 行列
  第3曲 メヌエット
  第4曲 バレエ
休憩
・白と黒で(ピアノ2台)
  第1曲 無我夢中で
  第2曲 ゆるやかに、沈痛に
  第3曲 スケルツァンド
・リンダラハ(ピアノ2台)
夜想曲(ピアノ2台)
  第1曲 雲
  第2曲 祭り
  第3曲 シレーヌ


印象に残ったのは、絵でいえば下塗り部分の美しさ。楽しい曲でも愉悦やユーモアを感じさせるタイプの演奏ではなく、華やかな高音より、低音の和音の厚みや色彩感の方に心惹かれました。端正で…というか余分なものがなくて、簡素で、でも厚みがあって。この世のものではない鬱金の色にふわあと包まれたようでした。
どの曲もドビュッシーならではのもやっとした不協和音や、人間の指の数を考慮していないようなややこしそうな音がとめどなく展開していくのですが、「6つの古代碑銘」で聴こえた鬱金色に惹き付けられ、ずっとそれを追いかけるような聴き方をしてしまいました。それはラーンキさんの個性かな。クルコンさんの音は時々ちょっと艶っぽすぎるように感じられたので。
ラーンキさんは、ハイドン集のディスクでもユーモアを出さない演奏が印象に残っていました。


「小組曲」の途中からホールが音でみっしりと充たされた感覚があり、後半の2台演奏は迫力がありました。
ラーンキさんとクルコンさんはご夫婦です。呼吸がよく合っていたと思います。


エンターテインメント性のやや薄い、繊細なプログラムなので、アンコールはおそらく無しの予定だったのでしょうが、拍手が長くやまず「リンダラハ」をもう1度。弾いてもらうのが申し訳ない気もしましたが。

続いて「三宅菊子」で記事を拾う。
宇野千代のエッセイを読んでいると、よく登場するお名前である。1970年代のアンアンのライターだった方で、今年8月に亡くなられたのですね。


記事の作り方の話にうんうんとうなずく。

「週刊平凡」で5年くらい経った時に新雑誌が出ることになって、「平凡パンチ」の臨時増刊として「平凡パンチ女性版」が出て、次に「アンアン」が創刊されました。私は「週刊平凡」をやりながら「アンアン」もやることになりました。
「週刊平凡」の時は、芸能人に取材に行くこともなかったので、いわゆる芸能記者にはならなかったけれど、「アンアン」に移ったら、おしゃれや映画や音楽など、私が結婚する前にいろいろ楽しんでいた世界のことだから、自分から積極的に関わっていくようになりました。
その時分はまだ週刊誌も活版ですから、レイアウトというより割り付けです。原稿を書けば、割り付けして印刷所に回るわけです。つまり今で言う先原ですよね。どんな下っ端が書いた原稿だろうと先原で、それをざーっと割り付けして印刷に回すというシステムでした。
「アンアン」のライターをやり始めて、そうじゃない世界もあるんだというのに驚きました。グラフ誌の編集というのは、まずアートディレクションがあって(レイアウト先行)、次に文字で埋めていく。アートディレクターの堀内誠一さんと弟子が2人ぐらい来て3人でレイアウトして、格好いいなと見てました。堀内さんが関わっていた頃の「アンアン」はとってもハイブロウでしたから、まず堀内さんがレイアウトして、ここに原稿書けと言われて原稿を書いていくわけです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~wo-house/miyake.htm


先に原稿を書くか、先にレイアウトを作るか、職場で発行物を作る時によく出くわす問題です。私の場合は、まず自分でページのイメージを手書きし、そこから必要なコピーやテキストをちまちまと書いて、手書き図とテキストデータを合わせてレイアウト担当の同僚に渡します。
ストイックにテキストだけを書くよりも、ページ全体のイメージからあれこれ楽しく考えた方が、作業がやりやすいんですよね。それに、発行物(写真入りの報告書やインタビュー記事などです)を受け取る人の多くは、「読む」前にまず「見る」だろうな〜と思うので。
でもあくまでラフであり、自分で完全に「アートディレクション」をできるわけではないので、レイアウト担当の同僚に任せる部分も大きいです。レイアウトをした上で、「ここにもう少しテキストを入れたら?」などと提案してもらって、何度もやり取りしながらページを作っていきます。

抱きかかえる

ふとしたきっかけから、「ピンクハウス」→「金子功」→「立川ユリ」→「1970年代のアンアン」→「入江ベラ」→「入江美樹」をころがるように検索。
現在、入江美樹さんの画像集(http://matome.naver.jp/odai/2126170419515454301)から、バッグの持ち方が気になり始めたところ。


抱きかかえている。少し不安そうな、ある風情。
この写真を撮ったカメラマンはどんなことを考えたのかしら。




バッグと同じ抱きかかえ方で、犬。
犬になると風情はなくなってしまう。